海壁

第六章

五つの手のひら

挿絵:五つの手のひら

マーロウは、排水口に背を向けた。

「上がるぞ」

縄梯子を、一段ずつ上った。近づかない、と壁に見せるように、ゆっくりと。ミラベルとベルとミラが、あとに続いた。

壁の上では、ウィラが、縁をつかんだまま待っていた。

五つの手のひらが、街の上に並んでいた。どれも、椀の形に丸まって、海の水を抱えていた。縁から、ときどき、滴が落ちた。落ちるたびに、下の通りで、誰かが悲鳴を上げた。

『…マーロウ』

「分かってる。まず、通りを空ける」


手のひらの下の通りは、三本あった。市場の北の通り、樽屋の並び、水道橋の東の坂。

グロムが、兵を三つに分けて走らせた。オークの兵は、戸を叩いてまわった。上の階へ。屋根の上へ。東門の外へ。

ガスが、市場の真ん中で、声を張り上げていた。

『上だ! 上に行け! 上に行けってば!』

三回目は、短くならなかった。いちばん大きい声だった。

樽屋の並びでは、ハロルドが、杖を脇に挟んで走っていた。

杖なしで歩けるようになって、まだ間もない足だった。その足で、ハロルドは、泣いている小さな男の子を、片腕で抱き上げていた。

『母ちゃんは』

男の子が、首を振った。

『なら、わしが運ぶ。しっかりつかまれ』

ハロルドは、男の子を抱えたまま、坂を上がりきった。上がりきってから、膝をついた。息が、上がっていた。

それでも、男の子を、落とさなかった。

ウィラが、壁の上から、それを見ていた。唇を、強く噛んでいた。

「…父さん」

ミアが、帳面に書いていた。書きながら、泣いていた。

一時間で、三本の通りは、空になった。


「ミラベル」

『うん』

「五本とも、肘で落とせるか。水をこぼさずに」

ミラベルは、壁の上に立って、並んだ腕を端から端まで見た。北の口から南の口まで、二キロ半。

『一滴目じゃ、無理。一本落とすあいだに、残りの四本が傾く』

「二滴目なら」

『全部、いける』

ミラベルは、マーロウを見た。

『坊やが、遠くなければ』

「おれは、ここにいる。壁の真ん中だ。どの腕まででも、一キロ半もない」

壁が、口をきいた。

『一番。腕に触れれば、手のひらを、傾けます』

「傾けるより、あたしのほうが、速いよ」

ミラベルは、壁の石に向かって言った。

『計算します』

「計算してて」

ミラベルは、マーロウの前に、顔を上げた。

マーロウは、鉤の先で、人差し指を突いた。今朝と同じ指。赤い玉を、ミラベルの唇へ持っていった。

ミラベルは、それを、唇で受けた。

胸の奥で、ことり、よりずっと深いところで、何かがはまる音がした。

金属の目が、白く光った。

『…返してくる』

「何を」

『水。海に』


ミラベルが、消えた。

立っていた壁の石に、細い亀裂が走った。遅れて、風が来た。

マーロウは、数えた。

一つ。

北の腕の肘に、鏡のような線が走った。三十メートルの前腕が、水を抱えた手のひらごと、ふわりと浮いた。浮いたのではなかった。ミラベルが、下から、左手一本で受けていた。

二つ。

一本目の腕が、壁の外へ消えた。同じ息のうちに、二本目の肘が光った。

三つ。

乾いた海の底の上を、白い線が、何本も走った。

波打ち際で、一本目の手のひらが、そっと、海に下ろされていた。椀の形のまま、傾けて。抱えていた水が、海へ、静かに流れこんでいった。

四つ。

二本目。三本目。手のひらが、波打ち際に、ひとつずつ並んでいった。どれも、こぼさなかった。どれも、海に返した。

五つ。

五本目の手のひらが、水を返した。

街の上には、肘から先のない腕が六本、空に向かって立っているだけだった。

手のひらは、一つも、傾かなかった。

傾く前に、もう、そこになかった。


ミラベルは、壁の上に戻ってきて、マーロウの足元に、膝から崩れた。

唇が、白く乾いていた。

マーロウは、同じ指を、もう一度突いた。

三滴目を唇に落とすと、ミラベルの喉が、小さく動いた。金属の目の白い光が、すっと引いた。

『…返してきた』

「見てた」

『全部、海に』

「見てた。五つ、数えた」

マーロウは、壁の上に膝をついた。

壁の上には、兵がいた。ウィラがいた。ミアがいた。下の通りの屋根には、街の人がいた。

マーロウは、それでも、ミラベルの頬を両手で挟んで、口づけた。

『…約束の、あと?』

「あとだ。…遅くなった」

屋根の上から、ガスの口笛が聞こえた。三回だった。


壁の声が、言った。

『腕を、五本、確認できなくなりました』

声は、少しも変わらなかった。

『計算の外でした。一番の速さを、見誤りました』

「もう、傾けるものはないな」

『はい。次の荷車は、七日後に着きます』

壁は、少しだけ間を置いた。

『二本ではなく、十二本、送ります』

ウィラが、マーロウの袖をつかんだ。

十二本。今日の腕の、二倍。

マーロウは、壁のてっぺんに立つ、肘から先のない六本を見た。

それから、壁の根元の、排水口を見た。

「七日ある」

マーロウは、言った。

「今夜、入る」

第六章 了