海壁

第二十六章

ミラ・グリム

挿絵:ミラ・グリム

次の朝、ベルが、杭の前で、首を傾げていた。

それから、もう一度、杭の板の数字を見た。

マーロウが縄梯子を降りていくと、ベルは、振り向いた。

『指の関節、一つ分です』

「戻ったか」

『はい。春の初めと、同じです』

ベルは、杭の板に、今朝の数字を刻んだ。

細くて、きっちりした字だった。その横に、ベルは、いつもは刻まないものを、一つ刻んだ。

小さな、丸。

「なんだ、それ」

『ミラベルが、嬉しいときに、両手でやる形です』


ニムの店の二階で、ミアが、帳面を開いていた。

帝国暦三四九年、夏の初め。根の口、四十。ミラ、留めを入れる。グロム・ハルヴァーと壁の兵二十、手を押さえる。海の引き方、春の初めに戻る。

ミアは、ミラの名前を書きかけて、筆を止めた。

それから、ミラのほうを見た。

『ミラの名字って、ミラベルがつけたんだよね。…本物のグリムじゃ、ないんだよね』

ミアが、言った。

部屋の隅で、ミラが、溝のついた木の指を、開いて閉じていた。

ネルが、壁にもたれて、腕を組んでいた。

「本物だ」

ネルが、言った。

ミラが、顔を上げた。

「グリムの手で、グリムの留めを入れたやつは、グリムだ。もらった名字でも、今日から本物だ。うちの親父なら、そう言う。…あたしも、そう言う」

ネルは、ミラの前に、しゃがんだ。

「ミラ・グリム。…本物で、いいか」

ミラは、金属の目で、ネルを見ていた。長いこと。

『…ミラ・グリム』

ミラは、その名前を、自分の口で、言った。

『ミラ、名前と名字、もらった。ミラベルに。…本物に、してもらった。ネルに』

ミラベルが、部屋の入口で、立ち止まっていた。杏を三つ、手に持ったまま。

杏が、一つ、床に落ちた。

ミラベルは、拾わなかった。ミラのところへ走っていって、ネルごと、抱きしめた。

「ミラ・グリム! ミラ・グリム!」

『痛い痛い痛い! なんで毎回あたしごとなんだよ!』

ミアが、書きかけの名前の続きを、書いた。

ミラ・グリム。


昼過ぎ、東門の外で、ラーナが、翼を広げていた。

南の畑へ、戻るのだった。首の筒には、手紙が三通入っていた。ウィラがドラグとロズリンに書いた手紙。グロムがドラグに書いた手紙。字は、グロムが書いて、ウィラが直した。それから、マーロウがティルダに書いた、短い手紙。

ネルが、ラーナの前脚の前に、立っていた。

『親父と、ちびが、待ってる』

ネルは、マーロウに言った。

『列は、もう畑に着いてる頃だ。親父の熱は下がった。ちびは、ハルデンで、脚を伸ばしてる。…帰る』

「六日、またぶら下がるのか」

『ぶら下がる。今度は、腕に布を巻いてく』

ネルは、ミラベルのほうを向いた。

ミラベルは、唇を噛んでいた。

「…また、来る?」

『来る。壊したら、また直してやる。どこにいても、持ってきな』

ネルは、ミラの木の指を、一本ずつ、見て回った。溝が、ちゃんと残っているか。

それから、ウィラの前に立った。

『右に、三回。忘れんな』

「忘れない」

『あんたの手は、いい手だ。…うちの親父なら、そう言う』

ウィラは、顔を赤くして、うつむいた。

ラーナが、前脚を下ろした。ネルが、腕に布を巻いて、しがみついた。

灰白色の翼が、砂を巻き上げた。

翼は、東門の上を一度まわって、南の空へ、小さくなっていった。

ミラが、ずっと、その点を見ていた。点が見えなくなっても、見ていた。

ミラ・グリムの、ネル、とミラが言った。


その夜、納屋で、ミラベルは、板切れを、梁の下の壁に立てかけた。

ミラベル・グリム・ケイン。炭の字の、ケインのところが、涙で少しにじんでいた。

その横に、ミラベルは、もう一枚、新しい板切れを立てた。

ミラ・グリム。

字は、ミアが書いた。きれいな字だった。

『並べると、いいね』

「ああ」

『坊や』

「なんだ」

ミラベルは、藁の上で、マーロウの腕の中に、背中から収まった。

『今日も、いた』

「いた」

『明日も、いてね』

「いる」

ミラベルは、マーロウの手を取って、自分の胸の前で、指を絡めた。

『…あたし、今、いちばん』

それだけ言って、黙った。何が、いちばんなのか、言わなかった。

マーロウも、訊かなかった。

海の低い音が、板の隙間から、聞こえていた。春の初めと、同じ音だった。

第二十六章 了