第八章
白い服

夜明け、ベルは、杭の列の先に立っていた。
マーロウが縄梯子を降りていくと、ベルは、いちばん新しい杭の板を指さした。細くて、きっちりした字の数字が、一つ増えていた。
『今朝は、指の関節、一つ分です。昨日までは、三つ分でした』
「腕がなくなって、元に戻ったか」
『はい。壁の根が飲むぶんだけです』
ベルは、少しだけ、首を傾げた。
『それから、決めました。報せのこと』
マーロウは、黙って待った。
『海の高さだけは、毎朝、報せます。ほかの数字は、報せません』
「なんで、高さだけなんだ」
『本部は、嘘をつきません。私も、つきません。…ですから、見せます。本部が毎朝、何を減らしているのかを、本部に』
ベルは、杭の板を見た。
『数字は、ここに刻みます。本部が読むたびに、同じ数字を、ミアも読みます』
「それでいい」
マーロウは、言った。
「おまえが決めたんなら、それでいい」
縄梯子の上から、ミラベルが飛び降りてきた。何も言わずに、後ろからベルに抱きついた。ベルは、よろけもしなかった。
朝の一滴は、壁の上で受けた。
『…ごちそうさま』
「昨日、何回突いたか、数えるなよ」
『数えた。指で三回。手のひらで一回』
「数えるなって言ったろ」
『数えるよ。坊やの血は、あたしが数えるの。坊やは、自分の血、数えないから』
ミラベルは、マーロウの指の先を、唇で軽くはさんだ。一滴目のあとで、もう出ていない指を。
『早く治りますように』
「…おまじないか」
『ロズリンの本に、書いてあった』
ニムの店の二階で、ミアが、帳面を開いていた。
帝国暦三四九年、夏の初め。一番、腕を五本、海へ返す。
その下に、ウィラが、横から一行足した。
一滴も、こぼさなかった。
『…勝手に足さないで』
「足すよ。見てたもん」
ミアとウィラは、顔を見合わせて、笑った。
『ニコにも、書こうよ。都に』
ミアが、言った。
『三人だもんね、あたしたち』
ウィラは、帳面の端を、指でなでた。姉ちゃんは姉ちゃん、弟は弟。都で別れるとき、ニコにそう言った。ミアから教わった言葉だった。
「…書こう。今日、書こう」
階段を、誰かが駆け上がってきた。
オットだった。ガスとは十七のときからの仲間で、去年、三か月変わっていて、そのあいだのことを、全部覚えていた男だった。顔が、青かった。
『マーロウ。…施療所だ』
「何があった」
『干し肉屋の娘が、夜中に熱を出した。明け方、役人が来て、施療所へ運んでった。五つだ』
干し肉屋の女。去年の祭りの夜、マーロウの腕に触れて、ミラベルに割って入られた女だった。
『母親が、門の前で泣いてる。入れてもらえないって』
「分かった」
ハロルドが、戸口で、杖を握りしめていた。
いつからそこにいたのか、マーロウは気づかなかった。
『…この街の施療所だ』
ハロルドの声が、低かった。
『四年前、わしが、瓶を飲まされたのは』
ウィラが、立ち上がった。椅子が、倒れた。
マーロウは、ヒューゴ・ランベールの台帳を思い出していた。帝国暦三四二年、夏。リーネ・ケイン。海壁の街。本部行き。
母も、この街の施療所から、運ばれていった。
「行くぞ」
施療所は、街の北の外れにあった。
白い石の、平たい建物。窓が小さい。マーロウは、この街で長く暮らしてきたが、一度も中に入ったことがなかった。熱病の者が行く場所だと、みんなが避けていた。
門の前で、女が、地面に座りこんでいた。
灰色の軍服の兵が二人、門を塞いでいた。
ミラベルが、兵の前に立った。
「どいて」
兵が、槍を構えた。ミラベルは、槍の穂先を、指二本でつまんだ。つまんだまま、槍ごと、兵を横へ置いた。二人とも、そうした。
兵は、何が起きたのか分からない顔で、地面に座っていた。
マーロウは、戸を開けた。
中は、白かった。
寝台が、十並んでいた。九つは、空だった。
いちばん奥の寝台に、小さな女の子が寝ていた。頬が、熱で赤かった。
寝台の横に、白い服の男が立っていた。染み一つない服。手に、指ほどの小さな硝子の瓶を持っていた。
男は、その瓶の口を、女の子の唇に、当てようとしていた。
『何ですか、あなたがたは』
男が、振り向いた。
『熱に、効く薬です。邪魔を、しないでください』
深い水を煮詰めた瓶。飲めば、一晩で変わる。熱病で死んだことにされて、どこかへ売られる。
ハロルドが、マーロウの横を、抜けていった。
杖を、突かなかった。杖を、床に落とした。
四年、娘の前に立てなかった足で、ハロルドは、寝台と男のあいだに、立った。
「その瓶を、置け」
第八章 了