海壁

第二章

ただいま

挿絵:ただいま

壁の階段を降りると、東門の内側に、杖をついた男が立っていた。

痩せた体。四十を少し過ぎたくらい。半分白くなった赤茶の髪。鼻の頭のそばかす。

ハロルド・ドーセット。ウィラの、もう一人の父親だった。

畑で別れたときは、杖にすがって、ようやく歩けた。今は、杖を持ってはいたが、ほとんど体を預けずに、自分の足で、こちらへ歩いてきた。

『…来たか』

「来た」

『娘が、楔を打ちに行くと言って、きかんでな。わしの足では、壁の階段を上がれん』

ハロルドは、ウィラの濡れた髪を見た。

それから、マーロウを見た。

『畑で、娘をしばらく借りていく、と言ったな』

「返せ、と言った」

『返すとは、言わんぞ』

「半分でいい」

ハロルドは、少し考えた。

『…半分なら、返す』

ウィラが、二人のあいだで、両手で顔を覆った。

「…やめて。二人とも。ここ、門の前だよ」


その夜、ニムの店の二階に、人が詰めかけた。

『マーロォォウ!』

階段を駆け上がってきたのは、ガスだった。右手の指が三本しかない手で、マーロウの肩をばんばん叩いた。

『なんで空から来ねえんだよぉ! ミラベルは空から来たぞ、前は!』

「今回は、走ってきた」

『走ってぇ!?』

ニム・カラハンが、杏の袋を抱えて、よたよたと上がってきた。二百歳を越えたゴブリンで、この店の主だ。何も言わずに、マーロウの手に杏を三つ押しつけた。

ミア・ホロウェイが、帳面を抱えて、隅に座った。ロズリンの後を継いで、街の記録を書いている娘だ。一行目は、もう書いてあった。帝国暦三四九年、夏の初め。マーロウ・ケイン、戻る。

ヴェスタが、戸口に立っていた。この街の縫い屋で、布も人も縫う。いつも苦い根を噛んでいる女だった。マーロウの手のひらの古い切り傷を、じっと見た。

『増えとるな』

「数えてない」

『わしが数える』

グロム・ハルヴァーが、最後に入ってきた。頭をきれいに剃ったオークで、黄色い目をしている。ドラグの下で十年、壁に立ってきた副長だった。今は、ドラグの代わりに、壁の兵を預かっている。

『隊長は』

「生きてる。畑へ行った。二百八十九人、連れてな」

グロムは、長く息を吐いた。

『…隊長らしい』


グロムが、この春からのことを話した。

春の終わりから、夜になると、壁の中が低く鳴るようになった。朝になると、海が、指の関節ひとつ分ずつ引いていた。

『六日前からです。腕が、昼にも出るようになりました』

グロムは、指を三本立てた。

『それから、海の引き方が、変わりました。朝ごとに、指の関節、三つ分』

「三倍か」

『はい。ベルが、杭で測っています』

ベルが、窓の横に立っていた。

「ベル」

『今朝の波打ち際は、壁から、二百十メートルです。春の初めは、百三十メートルほどでした』

「腕は、どこから来た」

ガルドが、左手で杯を持ち上げた。

『腕の骨は、十日ごとに、本部の荷車が運んでくる。壁の北の端から、中へ入れていく』

「止めなかったのか」

『一度、止めた』

ガルドは、杯を置いた。

『荷台から、手が出てきた。指の先から、白い線だ。兵が二人、焼けた。…それで、楔にした。楔なら、誰も撃たれんと思った』

「撃たれなかった。代わりに、水が降ってきた」

『ああ。読み違えた』

ガルドは、それだけ言った。言い訳を、一つも足さなかった。


マーロウは、孤独の大地のことを話した。

十二の家の者を、名前を呼んで連れ出したこと。塔の下の十二の椅子。ケインの席。ドラグとロズリンが、その人たちを畑へ連れていったこと。

それから、本部が、三年を二年にしたこと。

『二年って、なんだよぉ…』

ガスが、頭を抱えた。

『二年で、この街の海、なくなんのかよぉ』

「なくさせない」

マーロウは、言った。

「あの腕を止める。止め方を知ってるやつを、呼ぶ」

部屋の隅で、ラーナが、翼をたたんだまま顔を上げた。

『私が、飛びます』

「明日の朝、頼む。手紙を書く」

ミアが、帳面に、一行足した。

ウィラが、それを横から覗きこんでいた。ミアとウィラは、顔を見合わせて、同時にうなずいた。


夜更け、マーロウは、東門の脇の納屋に戻った。

この春まで、寝ていた場所だった。藁の山。壊れた樽。壁に打ちつけた釘。

何も変わっていなかった。藁だけが、新しくなっていた。

『ベルがね、毎月、替えてたんだって』

ミラベルが、戸口で言った。

『帰ってきたとき、寝る場所がないと困るからって』

ミラベルは、藁の山に飛びこんで、仰向けになった。

『…ただいまぁ』

それから、両手を広げた。

『はい、約束』

マーロウは、藁の上に膝をついた。

ミラベルの顔の横に、手をついた。

口づけは、短かった。ミラベルが、すぐに笑いだしたからだ。

『…藁、ちくちくする』

「おまえが飛びこんだんだろ」

『だって、帰ってきたんだもん』

ミラベルは、マーロウの首に、腕を回した。金属の腕と、肉の腕で。

『ねえ、坊や。嬢ちゃん、名字、三つになってた』

「二つだ」

『あたしも、もう一個、ほしいな。名字』

「考えとく、と言った」

『いつまで考えるの』

マーロウは、しばらく黙っていた。

「…もう、考えてある」

ミラベルが、目を見開いた。

『え』

「言う日を、決めてないだけだ」

ミラベルは、藁の中で、手足をばたばたさせた。

『ずるい! それ、ずるい! 今言って! 今!』

「言わん」

『言ってよぉ!』

マーロウは、答えずに、藁の上に寝転がった。

壁の中が、低く鳴っていた。

「…ベルは、なんで、壁の中の粒が濡れてるって、知ってたんだ」

ミラベルが、ばたばたをやめた。

『…あ』

「明日、訊く」

『うん』

ミラベルは、マーロウの胸に、耳を当てた。

『今日も、いた』

「いた」

第二章 了