第十六章
ケイン

朝の一滴のあと、マーロウは、ウィラを市場の裏へ呼んだ。
ウィラは、帳面を抱えて来た。マーロウの顔を見るなり、目を細めた。
『…何』
「名字の話だ」
ウィラの口が、への字になった。それから、ゆっくり、ほどけた。
『やっと?』
「やっとって言うな」
『言うよ。ずっと待ってたもん。ミラベルより、あたしのほうが待ってた』
「今日の夕方、言う」
ウィラは、帳面を胸に押しつけて、足踏みをした。一回、二回。
『どこで』
「壁の上」
『じゃあ、壁の上に、人が来ないようにしとく。グロムさんに頼む』
「頼んでない」
『あたしが、頼むの』
ウィラは、くるりと背を向けて、走っていった。走りながら、一度だけ振り返った。
『マーロウのほうの父さん! ちゃんと言ってよ! 噛まないでよ!』
「…ほうって何だ」
夕方、壁の上には、誰もいなかった。
グロムの兵は、南と北の端の見張り台に下がっていた。西の海に、日が沈みかけていた。杭の列の先で、波が赤く光っていた。
ミラベルが、縄梯子を上がってきた。
『嬢ちゃんが、壁の上に行けって。坊やが待ってるって。…どうしたの。誰もいないよ』
「板、持ってるか」
『板?』
ミラベルは、帯のあいだから、板切れを出した。炭で書いた、ミラベル・グリム。半分、空いたままの板。
『毎日、持ってるよ。落とさないように』
マーロウは、板を受け取った。腰の袋から、炭のかけらを一つ出した。昼のうちに、ニムの店でもらってきたものだった。
壁の石の上に、板を置いた。しゃがんだ。
マーロウは、字を書くのが遅い。読めるが、書くのは遅い。
一字ずつ、書いた。
ケ。
イ。
ン。
ミラベルは、何も言わなかった。板を、見ていた。
マーロウは、板を持ち上げて、ミラベルに渡した。
ミラベルは、両手で、板を受け取った。金属の指と、肉の指で。
「…読めるか」
ミラベルの唇が、動いた。声が、出なかった。
もう一度、動いた。
『…ミラベル。…グリム。…ケイン』
「字は、下手だ」
『下手』
「読めるだろ」
『読める』
ミラベルの右目から、涙が落ちた。板の上に、落ちた。炭が、少しにじんだ。
『にじんだ』
「書き直す」
『やだ。これがいい』
マーロウは、立ち上がった。ミラベルの前に立った。
何を言うか、昼のあいだ、ずっと考えていた。考えたことは、全部、忘れていた。
「ケインは、母さんの名字だ」
マーロウは、言った。
「一と、おそろいの名字で、ウィラが勝手に足した名字だ。…おまえにも、やる」
ミラベルは、板を胸に抱えていた。
「やりたいから、やる。ほかに、理由はない」
ミラベルの肩が、震えていた。
それから、板を抱えたまま、マーロウの胸に、額を押しつけた。強く。何度も。
『愛してる』
「…知ってる」
『愛してる。愛してる。坊や、愛してる』
「三回言うな。ガスか」
『何回でも言う。今日は、何回でも』
ミラベルは、顔を上げた。泣きながら、笑っていた。顔じゅうで。
マーロウは、ミラベルの頬を、両手で挟んだ。
夕日が、二人の横顔を、赤く照らしていた。
「ミラベル」
『…なに』
「愛してる」
ミラベルの目が、まん丸になった。
一度も、言ったことのない言葉だった。好きだ、は言った。愛してる、は、言わなかった。そういうのは簡単に言うもんじゃない、と言ったのは、マーロウのほうだった。
ミラベルは、板を落とさなかった。それだけは、落とさなかった。
その代わりに、壁の上で、転がった。
一回、二回。三回目で、止まった。仰向けのまま、板を胸に抱えて、空を見ていた。
『…止まる』
「止まるな」
『止まる。坊やの血で動いてるのに、止まる』
「止まったら、一滴やる」
『…じゃあ、止まる』
縄梯子の下から、歓声が上がった。
ウィラだった。グロムの兵が止めるのも聞かずに、ずっと梯子の途中にしがみついて、聞いていたのだった。
ウィラは、梯子を下りきる前に、市場のほうへ叫んでいた。
「名字! ミラベル、名字、もらった!」
日が沈むまでに、街じゅうが知っていた。
その夜、市場の真ん中に、灯りが並んだ。
誰が言いだしたのでもなかった。ニムが、店の杏を全部出した。ヴェスタが、苦い根の酒を出した。ガスが、三回、同じ乾杯をした。三回目も、長かった。
ガルドが、左手で椀を持ち上げた。
『名字が増えたなら、それでいい。大声を出せ。おれのぶんもだ』
ハロルドは、ウィラの横で、椀を傾けていた。エマに、今夜のうちに言っておく、とハロルドは言った。桶が、いくつ落ちるかな。
ウィラが、父親の肩に、頭をのせた。
ミアが、帳面を開いて、書いていた。
帝国暦三四九年、夏の初め。ミラベル・グリム、名字をもう一つもらう。ミラベル・グリム・ケイン。
ベルが、ミラベルの前に来た。
「ベル!」
『おめでとうございます、ミラベル』
「ありがと、ベル」
ベルは、自分の胸に、手を当てた。
『胸の内側が、軽くなりました。浮くようです。…これは、何ですか』
「それはね」
ミラベルは、ベルを抱きしめた。板を持ったまま。
「嬉しい、って言うの」
船に乗ると名前を書いた、ベンとリタが、赤ん坊を抱いて来ていた。干した杏を、一つかみ、ミラベルの手にのせた。
明日、船に乗ります、とリタは言った。向こうで、今夜のことを、この子に話します。
ミラベルは、赤ん坊の小さな手に、指を一本、握らせた。
東門の外、船の甲板に、小さな灯りが一つ、揺れずに光っていた。その横に、銀色の髪の女が立って、市場の灯りを見ていた。
その夜、市場の灯りは、朝まで消えなかった。
第十六章 了