海壁

第二十二章

開いたままの手

挿絵:開いたままの手

留めを入れ終わってから、三日、何も起きなかった。

ネルは、その三日で、ミラの木の腕を直した。北の端の番の手に跳びついたときに、肘の蝶番が、少し歪んでいたのだった。

「グリムの腕は、グリムが直す」

ネルが言うと、ミラが、金属の目を細めた。

『ネルも、グリム。ミラも、グリム』

「あんたの名字は、ミラベルがつけたやつだろ」

『ミラベルのが、ミラの』

ネルは、何か言いかけて、やめた。代わりに、蝶番に油を一滴、落とした。


二日目の夕方、ベルが、ネルの前に立った。

両腕を、差し出した。錆びない金属の、二本の腕。

『私の腕も、見ていただけますか』

ネルは、ベルの腕を取って、手首を裏返した。筋の道を、指でたどった。

しばらく、黙っていた。

「…交差してる。手首で、一回。肘へ引いてある」

ネルは、ベルの顔を見上げた。

「うちのやり方だ。あんたも、親戚だ」

ベルは、瞬きをしない金属の目で、ネルを見ていた。

『親戚』

「そう。グリムの手を持ってりゃ、親戚だ。うちの親父なら、そう言う」

ベルは、自分の腕を見た。それから、胸に手を当てた。

『…今度は、分かります』

ベルは、言った。

『これは、嬉しい、です』

ミラベルが、横で、飛び上がった。ベルとネルを、両腕で、いっぺんに抱えこんだ。

「親戚! みんな親戚!」

『痛い痛い痛い!』

ネルが叫んで、ベルは、黙って抱えられていた。


二年のうちの、二十五日目の朝。

壁の上に、街じゅうの人が集まっていた。

北の端の口から、腕が、伸びていた。

十日かけて、肘から先が、全部戻っていた。三十メートルの前腕。手首。その先に、手のひら。

手のひらは、開いていた。

五本の指が、扇のように、ぴんと開いたまま、固まっていた。

腕が、ゆっくりと、海のほうへ倒れていった。波打ち際を越えて、開いた手のひらを、海の中へ下ろした。

街じゅうが、息を止めた。

腕が、手のひらを、持ち上げた。

海の水が、開いた指のあいだから、全部、流れ落ちた。滝のように。手のひらの上には、一滴も、残らなかった。

腕は、もう一度、下ろした。持ち上げた。また、全部、落ちた。

三度目も。四度目も。

市場の屋根の上で、誰かが、笑いだした。

それから、笑い声が、街じゅうに広がった。ガスが、手を叩いていた。ニムが、腰までの背丈で、飛び跳ねていた。ハロルドが、口の端で笑っていた。

ネルは、腕を組んで、壁の縁に立っていた。

『…うちの留めだ』

ウィラが、ネルの横で、自分の手を見ていた。小さな手だった。右に三回、ねじった手だった。

グロムの兵の詰め所の前で、ルーカス・ストラウドが、腕を見上げていた。

笑っては、いなかった。それでも、目を、離さなかった。


ミラベルが、マーロウの手を取った。

『九日、ちゃんと暮らせたね』

「ああ」

『朝、一滴もらって。市場で名乗って。嬢ちゃんと杏食べて。夜、坊やの横で寝て』

ミラベルは、指を折った。一本ずつ。九本。

『九回。全部、やった』

「九回、やったな」

ミラベルは、折った九本の指を、マーロウの手の中で、一本ずつ、開いた。開いたままの手のひらを、マーロウの手のひらに、重ねた。

『これ、開いてても、坊やの手は、持てるよ』

マーロウは、その手を、握った。


マーロウは、壁の石に、手を当てた。

「本部。見てるか」

『見ています』

「腕で、海を掬えなくなったな」

『はい。腕で、海を掬えなくなりました』

壁の声は、少しも変わらなかった。

「次は、どうする」

『根に、飲ませます』

「…すぐ、答えたな」

『訊かれましたので』


次の朝、ベルが、杭の数字を報せに来た。

いつもより、少しだけ、速く歩いてきた。

「どうした」

『今朝は、指の関節、四つ分です』

腕が海を掬っていた日より、多かった。

『壁の足の下で、夜のあいだ、ずっと、何かが開く音がしていました』

ベルは、首を傾げた。

『根が、口を、増やしています』

第二十二章 了