第三章
白い石

夜明け前、納屋の戸口で、ミラベルが口を開けて待っていた。
マーロウは、左の人差し指の先を、鉤の先で浅く突いた。赤い玉が、ぷくりと浮いた。
ミラベルは、それを唇で受けた。
胸の奥で、小さく、ことり、と鳴った。
『…ごちそうさま』
「毎朝言うな、それ」
『毎朝おいしいんだもん』
手紙は、ウィラが書いた。
マーロウは、字は読めるが、書くのは遅い。ウィラは、ロズリンに習った字で、ニムの店の机に紙を広げ、マーロウの言うことを、一語ずつ書いていった。
帝国暦三四九年、夏の初め。海壁の街にて。
ネル・グリムへ。
壁のてっぺんから、腕が六本出た。一本は二百メートルを越える。手首で、腱が交差している。あんたの家のやり方だ。
海を掬って、壁に入れている。海の引き方が、春の三倍になった。
止め方が分からない。壊し方なら分かるが、壊すと、壁の中の粒がほどけるらしい。
来てくれ。親父さんのそばを離れるのが無理なら、そう書いて返せ。どっちでも、恨まない。
マーロウ・ケイン。
ウィラは、最後に一行、自分で足した。
書いたのは、ウィラ・ドーセット・ケイン。
「…足すな」
『足すよ。あたしの字だもん』
ラーナが、手紙の筒を首に下げた。
『畑へ向かう列は、今ごろ、白い道と掘削地のあいだです。五日で行きます。人を一人抱えて戻るなら、六日』
「頼む」
ラーナは、灰白色の翼を広げた。東門の上を一度まわって、東の空へ小さくなっていった。
朝のうちに、東門の外の丘へ上がった。
ハロルドが、先を歩いた。杖を持っていたが、一度も突かなかった。
丘のてっぺんに、白い花の咲く木が一本あった。その根元に、白い石が一つ、置いてあった。字は刻んでいない。刻む金が、なかったのだという。
ハロルドは、石の前に、ゆっくり膝をついた。
『エマ』
石に、話しかけた。毎朝、そうしているらしかった。声に、迷いがなかった。
『今日は、連れてきた』
ハロルドは、振り返らずに、手だけで後ろを指した。
『娘の、もう一人の父親だ。…名前を、言え』
マーロウは、石の前に立った。
何を言えばいいのか、分からなかった。石に話しかけたことは、一度もない。
「…マーロウ・ケインだ」
それだけ言った。
ハロルドが、石に向かって、続けた。
『娘に、名前を訊いた男だ。施療所のあと、最初に、ウィラと呼んだ男だ』
ウィラが、マーロウの後ろで、顔をそむけた。
『…言ったとおり、殴りに来るなら、こいつにしろ。わしは、七回で足りとる』
ウィラが、吹きだした。
「父さん、それ、ずっと考えてたでしょ」
『四年、考えとった』
ハロルドは、石の上の花びらを、骨ばった指で払った。
それから、小さな声で、歌いだした。
子守唄だった。
音が、一つも合っていなかった。畑で初めて聞いたときより、少しだけ、声が出ていた。そのぶん、下手さが、よく分かった。
ウィラは、父親の背中に、額をつけた。
「…下手」
『母さんのほうが、下手だった』
「知ってる。覚えてる」
マーロウの横で、ミラベルが、鼻をすすっていた。
それから、石に向かって、小さな声で言った。
『エマさん。…坊やのこと、少し、借りてるね。嬢ちゃんの父親、半分』
「…おまえは、何を借りてるんだ」
『全部、借りてる。返さないけど』
ミラベルは、マーロウの左手を取った。赤い紐どうしが、触れた。
丘を下りる途中で、ミラが足を止めた。
ミラは、丘から、海壁を見下ろしていた。三キロの、灰色の線。金属の目が、細くなった。
『…マーロウ』
「なんだ」
『壁の中、光ってる』
マーロウは、壁を見た。朝の光の中で、壁は、ただの灰色だった。何も光っていなかった。
ミラの目は、違うものを見る。ほどけかけた粒の光を。濡れたところを。
『壁の、足のほう。ずっと、並んでる。…粒』
「いくつだ」
ミラは、しばらく数えていた。
木の指を折って、開いて、また折った。
『…分かんない。ミラ、数えられない』
ミラは、首を振った。
『千、じゃない。もっと。ずっと、もっと』
ハロルドが、杖を握り直した。
ウィラが、マーロウの袖をつかんだ。
一粒全部がほどければ、壁の灯り千個で二千八百年ぶん。ロズリンが、そう言っていた。それが、壁の足元に、数えきれないほど、並んでいる。
濡れている、とベルは言った。
「…中を、見る」
マーロウは、言った。
「排水口から入る。ネルが来る前に、何があるのか、見ておく」
『あたしも行く』
ミラベルが、すぐに言った。
「分かってる」
『ミラも』
ミラが、木の指を閉じた。
ウィラが、何か言いかけて、やめた。やめてから、もう一度、口を開いた。
『…あたしは、行けないんでしょ。中、濡れてるなら』
「行けない」
『分かってる。言ってみただけ』
ウィラは、マーロウの袖を放した。放してから、その手で、マーロウの背中を押した。
『帰ってきたら、全部話して。ミアが書くから』
マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。
十三度目だった。
第三章 了