海壁

第二十章

翼

挿絵:翼

次の日の昼過ぎ、東の空に、灰白色の点が一つ、見えた。

ミラが、最初に気づいた。翼、とミラは言った。

点は、見るまに大きくなった。灰白色の大きな翼。その下に、獅子の体。ラーナ・オーヴェインだった。

ラーナの前脚に、誰かが、しがみついていた。

黒い髪を短く切って、銅の針金で縛った女。

ラーナは、東門の前に、翼を広げて降りた。前脚から、女が転がり落ちた。

女は、砂の上に座りこんだまま、しばらく動かなかった。

『…六日。六日、ずっと、ぶら下がってた。腕が、自分の腕じゃない』

ネル・グリムだった。


ミラベルが、門から飛び出した。

「ネル!」

ネルが顔を上げる前に、ミラベルは、ネルを砂の上から抱き上げていた。金属の腕と、肉の腕で。

『痛い痛い痛い! 下ろせ、親戚! 六日ぶら下がってたんだぞ!』

「来てくれた! 来てくれた!」

『来たよ。来たから、下ろせ』

ミラベルは、ネルを下ろした。下ろして、それから、もう一度、抱きついた。

ネルは、今度は、文句を言わなかった。ミラベルの背中を、煤のついた手で、二回叩いた。

ラーナが、翼をたたんで、マーロウの前に来た。

「ラーナ」

『列には、五日で着きました。掘削地の手前です。二百八十九名、全員、歩いていました。…戻りは、人を抱えて六日でした』

「すまん。遠かったな」

『いいえ。…隊長から、これを』

ラーナは、首の筒から、紙を一枚出した。

汚い字だった。穴が、一つ開いていた。

帝国暦三四九年、夏の初め。列、歩いとる。オーウェン、熱が下がった。アディのパン、うまい。書くやつが、横におる。ドラグ。

その下に、きれいな字で、一行だけ足してあった。

待たせていません。ロズリン。


ネルは、ニムの店の二階で、水を三杯飲んだ。それから、やっと、話した。

『手紙は、読んだ。…ウィラの字だろ、あれ。書いたのは』

「言ったのは、おれだ」

『知ってる。親父の前で、あたしが読んだ』

ネルは、椀を置いた。

『行くかどうか、迷った。親父は、まだ、一日に何回か、あたしの名前を、一拍おいて呼ぶ。そのそばを、離れていいのか、分からなかった』

「それで」

『親父が、言った』

ネルは、右の前腕の古い火傷を、指でなぞった。

『行け。グリムの腕は、グリムが直す。…おまえの手は、うちの手だ』

ネルの声が、少しだけ、かすれた。

『二十六年、拾った子って、一回も言わなかった親父がさ。…うちの手、って言ったんだよ』

ミラベルが、ネルの横で、鼻をすすっていた。

マーロウは、黙って、ネルの椀に、水を足した。


そのあと、ミラベルは、帯から板切れを出して、ネルの前に置いた。

「ネル。見て」

ネルは、板を見た。

ミラベル・グリム・ケイン。

しばらく、黙っていた。それから、にやっと笑った。

『…親戚の、親戚が、増えたわけだ』

「坊やも、親戚」

『あんた、グリムを捨てなかったんだな』

「捨てないよ。爺さんの名字だもん。ネルの名字だもん。…足しただけ」

ネルは、板を、ミラベルに返した。

『字、下手だな。ケインのとこ』

「坊やが書いたの」

『だろうな』


夕方、ネルは、縄梯子で禁止区へ降りた。

乾いた底に、腕の残骸が転がっていた。ミラベルが、七日目に投げた前腕。八日目に海へ水を返した、五つの手のひら。

ネルは、いちばん近い手首の前に、しゃがんだ。

錆びない金属の筋を、指でたどった。親指の付け根から、手首へ。手首で、交差して、肘へ。

『…うちのやり方だ。間違いなく』

「止め方は、分かるか」

ネルは、しばらく、手首を撫でていた。

『うちには、留め、っていうのがある』

「留め」

『子どもの義手を作るとき。握る力の加減が分からない子は、自分の指を握りつぶすことがある。だから、最初の一年は、手首の交差を、もう一つ増やす』

ネルは、指で、空中に、筋の道を描いてみせた。

『二度交差させると、指は、開いたまま、閉じなくなる。物は持てない。でも、指は、傷まない』

マーロウは、手のひらを見た。椀の形の、大きな手のひら。

「閉じなけりゃ」

『水は、掬えない。指のあいだから、全部落ちる』


マーロウは、壁の根元に、手を当てた。

「本部。聞いてるな」

壁の声は、すぐに答えた。

『聞いています』

「腕を伸ばすとき、何の形で、伸ばす」

『切り口の型を、写して伸ばします』

「型を、変えられるか」

壁は、少しだけ、黙った。

『私は、手を、グリムの型でしか、作れません。手の係の型しか、持っていないからです』

ネルが、顔を上げた。

壁の声は、続けた。

『私が作る手は、全部、その型の写しです。切り口の型が変われば、写しも、変わります』

「…なんで、答えた」

『訊かれましたので。それに、嘘は、つきません』

ネルは、腕の残骸から、手を離した。

立ち上がって、壁のてっぺんを見上げた。北の端の腕の切り口が、夕日の中で、少しずつ、伸びていた。

「ネル」

『切り口に、留めを、入れればいい』

ネルは、言った。

『そしたら、伸びてくる手は、全部、開いたままだ』

第二十章 了