第九章
その瓶を、置け

白い服の男は、瓶を持ったまま、ハロルドを見た。
五十くらいの、太った男だった。薄くなった髪を、きっちり後ろへなでつけている。手が、白くて柔らかかった。重い物を一度も持ったことのない手だ、とマーロウは思った。
『どなたですか』
男の声は、やさしかった。
「ハロルド・ドーセット」
ハロルドは、言った。
「四年前、この部屋で、その瓶を飲んだ」
男は、少しだけ目を細めた。それから、思い出すのに一呼吸もかからなかった。
『…ドーセット。帝国暦三四五年、夏。重さ、五十八。共和国行き』
「覚えとるのか」
『全員、覚えております。私は、この施療所の医官です。ロドリク・ヘイルと申します』
ロドリクは、瓶を持ち直した。
『死んだはずの方が、なぜ、ここに』
「娘に、名前を呼ばれて、起きた」
『この子は、熱で死にます。瓶を飲めば、死なずに済みます』
「死なずに、売られる」
『生きております。帝国では、それを、救うと申します』
ハロルドの肩が、震えた。
「わしは、四年、救われた」
ハロルドの声が、かすれた。
「畑の土の上で、胸に管をつながれて、寝とった。娘が一人でどうしとるのかも、知らずにな。…それが救いなら、わしは、いらん。この子にも、いらん」
ロドリクは、ため息をついた。
それから、瓶の口を、また女の子の唇へ近づけた。
ハロルドの痩せた手が、ロドリクの手首をつかんだ。
『放してください。これは、指示です』
ロドリクのほうが、ずっと重かった。手首が、少しずつ、女の子のほうへ動いた。ハロルドの腕が、震えた。それでも、放さなかった。
マーロウは、横から手を伸ばして、ロドリクの指から、瓶を抜き取った。こぼさずに。
「深い水か」
『熱に効く薬です』
「一晩で変わる水だ」
マーロウは、瓶の栓を抜いた。人差し指の先を、鉤で突いて、赤い一滴を、瓶の口に落とした。
中の水が、消えた。瓶の底で、小さな粒が一つ、ころりと鳴った。
ロドリクの顔から、やさしさが、すっと引いた。
ヴェスタが呼ばれて、女の子の額に手を当てた。
苦い根を、ぺっと床に吐いた。
『ただの熱だ。熱冷ましの根を煎じて飲ませれば、三日で下がる』
戸口から、干し肉屋の女が、転がるように入ってきた。娘を抱きしめて、声を上げて泣いた。
ウィラが、ハロルドの前に立っていた。
ハロルドは、寝台の縁に手をついて、ようやく立っていた。息が、上がっていた。
「父さん」
『…なんだ』
「立ってた。ずっと」
ハロルドは、娘の顔を見た。それから、口の端だけで笑った。
『一回じゃ、なくなったな』
ウィラは、父親の首に、両腕を回した。
机の上に、革の帳面が、何冊も積んであった。
ウィラが、それを開いた。ロズリンに習った字は、読むほうも速かった。
「…二十年で、二百四十一人」
ウィラの指が、一行の上で、止まった。
帝国暦三四五年、夏。ハロルド・ドーセット。海壁の街。重さ、五十八。共和国行き。
ウィラは、その行を、長いこと見ていた。
それから、黙って、帳面をマーロウに渡した。もっと前の頁を、開いてあった。
帝国暦三四二年、夏。リーネ・ケイン。海壁の街。本部行き。
マーロウは、その字を見た。
ヒューゴ・ランベールの台帳で、一度見た行だった。同じ行が、ここにもあった。母は、この部屋の、どれかの寝台に寝ていた。
『その女のことは、覚えております』
ロドリクが、言った。
『瓶を飲む前に、ずっと、窓の外を見ていました。壁のほうを』
マーロウは、窓を見た。
小さな窓だった。その向こうに、海壁の灰色の線が見えた。
母は、この窓から、あの壁を見ていた。息子に、海に近づくなと伝えてほしい。瓶の前で、母がそう言い残したことを、マーロウは思い出していた。
「…そうか」
それだけ、言った。
窓のない奥の部屋に、黒い布をかけた棚があった。瓶が、何百と並んでいた。
グロムの兵が、布ごと瓶を運び出して、屋根の上の日向に並べた。オークの兵だけでやった。人間は、建物の外まで下がった。深い水は、日に一日当てれば、中の生き物が死ぬ。
ミアが、帳面に書いた。
帝国暦三四九年、夏の初め。海壁の街の施療所、止まる。四十のうち、二つ目。
ロドリクは、グロムの兵に両腕を取られて、施療所を出ていった。門のところで、一度だけ振り向いた。
『帝国に、報せが参ります。この施療所は、帝国のものです』
「報せろ」
マーロウは、言った。
「瓶は、日向に並べとく」
第九章 了