第二十三章
四つ分

四つ分、というのが、どれほどのことか、マーロウには、すぐには分からなかった。
ベルが、杭の前にしゃがんで、指で砂に数字を書いた。
『春の初めは、朝ごとに指の関節一つ分でした。本部は、それで三年と言いました。腕が出て、三つ分になって、二年と言いました』
ベルは、四、と書いた。
『四つ分が続けば、二年は、一年半より短くなります』
ミアが、帳面に、その数字を写した。写しながら、唇を噛んでいた。
マーロウは、波打ち際を見た。昨日より、また、遠くなっていた。
その日の昼から、マーロウは、壁の根に降りた。
排水口のあったところから入って、下り通路を抜けた。灯りの届かない長い広間。真ん中の水路を、海の水が、前より速く流れていた。
マーロウは、鉤の先で、手のひらを浅く突いた。
水路の縁にしゃがんで、手を入れた。まわりの水が消えて、粒が一つ沈んだ。手を抜いて、また入れた。
一は、坑の底で、毎朝百回これをやっていた。
五十回目で、腕が、重くなった。百回目で、肩が、上がらなくなった。
乾いたのは、手のまわりの、ほんの少しだけだった。流れてくる水が、すぐに、また濡らした。
「…四万杯、じゃ、ないな」
『六万杯です』
壁の声が、言った。
『根の口が増えました。流れてくる水も、増えました』
「…そうか」
マーロウは、手を水から上げた。
手のひらの傷は、もう閉じかけていた。閉じかけた傷を、また、鉤で開こうとした。
その手首を、金属の指が、つかんだ。
ミラベルだった。いつから、後ろにいたのか。
『やめて』
「まだ、やれる」
『やめて。一日、二本。…今日、もう二回、開いてる』
「数えてたのか」
『数えるよ。坊やは、自分の血、数えないから』
ミラベルの声は、震えていた。
『一さんは、坑の底で百回やって、九年やって、それで、坑の底で一人で死ぬところだったんでしょ。…坊やに、それ、させない』
マーロウは、ミラベルの顔を見た。
金属の目は、瞬きをしなかった。茶色いほうの目が、濡れていた。
「…分かった」
マーロウは、手を下ろした。
広間の灯りの届かない暗がりを、マーロウは、しばらく見ていた。
それから、壁に向かって、訊いた。
「本部。根の口は、何でできてる」
『手です』
壁の声は、すぐに答えた。
マーロウは、振り向いた。
「…手?」
『私は、手の係の型しか、持っていません。水を飲む口も、手で作ります。手のひらを丸めて、水を掬い、根の中へ流しています』
ミラベルが、息を止めた。
「その手は、どこにある」
『根は、海の底を、波打ち際の先まで、這っています。手は、水の中です。いくつ、とは、訊かれていませんので、言いません』
「いくつだ」
『四十です』
「大きさは」
『人の背丈ほどです』
その夜、ニムの店の二階で、ネルが、腕を組んで聞いていた。
「根の口は、手だそうだ。四十」
『手なら、留めが入る』
「水の中だ」
『知ってる』
ネルは、窓の外の暗い海を見た。
『あたしは、潜れない。人間だから。十一日の時計が、始まる。ウィラも、ミアも、同じだ』
「おれは、潜れる」
『あんたの手は、でかい。留めは、細かい仕事だ。筋の隙間に、指が入らなきゃできない』
ネルは、ミラベルを見た。それから、首を振った。
『嫁の指も、太い』
ミラベルが、自分の指を見て、むくれた。
「…じゃあ、誰がやる」
部屋の隅で、ずっと黙っていたミラが、木の腕を、少しだけ持ち上げた。
五本の木の指を、一本ずつ、開いて、閉じた。
『…ミラ、息、しない』
ミラは、言った。
『水の中、ずっと、いられる』
部屋が、静かになった。
ネルが、ミラの木の指を見た。自分が刻んで、直した指だった。細くて、よく動く指だった。
「…針金、ねじれるか。右に、三回」
『やったこと、ない』
「なら、明日、覚えろ」
ネルは、言った。
「あたしが、教える」
夜更け、グロムの兵の詰め所の前で、ルーカス・ストラウドが、一人で海を見ていた。
マーロウが通りかかると、ルーカスは、振り向いた。
呼ばれていないのに、振り向いた。
『…クララは』
ルーカスが、言った。
自分から、口をきくのは、初めてだった。
『クララは、妹です』
マーロウは、立ち止まった。
「覚えてるのか」
ルーカスは、答えなかった。海のほうへ、また、顔を戻した。
それでも、その横顔は、あの朝の御者台の顔とは、もう、少しだけ違っていた。
第二十三章 了