第十九章
干上がった底

朝、禁止区の南の岩のそばで、ベルが杭に数字を刻んでいた。
その横に、ウィラとミアがいた。二人とも、波打ち際から二十歩下がった、乾いた底の上に立っていた。ミアが帳面に数字を写し、ウィラが、次の杭を抱えていた。
マーロウは、壁の上から、それを見ていた。朝の一滴を済ませたミラベルが、横で、欠伸をしていた。
波打ち際の手前に、潮が引いて残った水たまりが、いくつもあった。
その一つが、泡立った。
水たまりの底から、錆色の板が、持ち上がった。
板は、一枚ではなかった。瓦のように重なって、丸い背中を作っていた。背中の下から、脚が六本。前に、長い管のような口が一本、突き出していた。
馬を三頭並べたほどの大きさだった。
管の口が、水たまりに差しこまれた。水が、みるみる減っていった。獣の腹が、ふくらんだ。腹の皮の下で、何かが、白く光っていた。
管の口が、上を向いた。
ウィラとミアのほうを、向いた。
「ベル!」
マーロウが叫ぶより先に、ベルは、動いていた。
管の口から、海の水が、太い一本の棒になって噴き出した。
ベルが、二人の前に立った。二本の金属の腕を、交差させた。水の棒が、ベルの腕にぶつかって、四方に砕けた。
砕けたしぶきが、ウィラの髪にかかった。ミアの帳面にかかった。
「しぶきくらいなら、始まらない!」
マーロウは、縄梯子を滑り降りながら、叫んだ。
「頭から浴びたら、始まる! 下がれ!」
獣は、また水たまりに口を差しこんだ。
二発目は、ベルの腕では、受けきれなかった。水の棒の端が、ベルの脇を抜けて、ウィラのほうへ曲がった。
その前に、大きな背中が、立ちふさがった。
グロムだった。
剃った頭から、海の水を、まともに浴びた。黄色い目を細めて、それでも、一歩も退かなかった。
『オークは、海をかぶっても、平気だ』
グロムは、言った。自分に言い聞かせるように。
それから、壁のほうへ、振り向いて、吠えた。
『壁の兵! 降りてこい! 人の前に立て!』
縄梯子から、オークの兵が、次々に飛び降りてきた。十人。二十人。みんな、ウィラとミアのまわりに、背中を向けて輪になった。
三発目の水が、輪にぶつかった。オークの背中で、砕けた。輪の中には、一滴も届かなかった。
ウィラが、グロムの背中を見上げていた。
「…グロムさん」
グロムは、振り向かなかった。
『ドラグ隊長なら、こうした。…おれも、こうする』
ミラベルが、獣の前に降り立った。
剣の柄に、手をかけた。
ミラが、壁の上から叫んだ。腹は切っちゃだめ、光ってる、腹の中に濡れてる粒、と。
ミラベルは、剣の柄から、手を放した。
マーロウが、獣の横に回りこんでいた。
「濡れた腹を切ったら、中の粒が、いっぺんにほどける。…先に、乾かす」
獣の管が、マーロウのほうを向いた。水を噴かなかった。マーロウを、避けた。孤独の大地の手と、同じだった。
マーロウは、鉤の先で、手のひらを浅く突いた。
ミラベルが、獣の管の口を、左手でつかんだ。錆びない金属の指で、握りつぶした。水が、行き場をなくして、獣の腹がふくらんだ。
マーロウは、ふくらんだ腹の、いちばん光っているところに、血の手のひらを押しつけた。
腹の皮が、濡れていた。その濡れが、粒になって、ぱらぱらと落ちた。
皮の下の白い光が、すっと消えた。
獣の脚が、止まった。
『…暗くなった』
ミラが、言った。
ミラベルが、剣を抜いた。今度は、迷わなかった。一振りで、錆色の背中を、首の付け根から割った。
獣は、それきり、動かなかった。
輪になっていたオークの兵が、ゆっくり、背中をほどいた。
輪の真ん中で、ウィラとミアが、立っていた。髪の先が少し濡れているだけで、二人とも、無事だった。
ミアが、濡れた帳面を開いた。字が、少しにじんでいた。
それでも、ミアは、書いた。
帝国暦三四九年、夏の初め。乾いた底から獣。グロム・ハルヴァー、壁の兵とともに、人の前に立つ。
ウィラが、グロムの前に回りこんだ。
グロムは、濡れた頭を、手で拭っていた。
「ありがとう」
ウィラは、言った。
グロムは、少し、困った顔をした。それから、黄色い目を、細めた。
『…隊長に、手紙を書いてくれ。おれが、ちゃんとやってると』
「書く。ロズリンさんにも、書く」
ベルが、獣の割れた背中を見下ろしていた。
『海が引いて、底が出ました。底には、昔の街の瓦礫があります。瓦礫には、昔の粒があります』
ベルは、首を傾げた。
『海が引くほど、こういう獣が、出てきます』
マーロウは、壁のてっぺんを見上げた。
北の端の腕の切り口が、また、人の背丈ぶん、伸びていた。
第十九章 了