海壁

第三十章

百

挿絵:百

三日のあいだに、畑は、戦の前の顔になった。

ティルダが、帳面の頁を、四百に分けた。ロズリンとヒューゴが写した名前を、一人ずつ、札に書き直した。札は、二百八十七の束に分けて配られた。

配られた相手は、施療所の兵だった者たちだった。畑で名前を呼ばれて、膝をついた、二百八十七人。

トビー・マーシュが、札の束を、両手で受け取った。

『わたしたちが、呼びます』

トビーは、言った。

『呼ばれて、止まったのは、わたしたちです。…だから、呼ぶのも、わたしたちです』

ティルダが、帳面に書いた。

帝国暦三四九年、夏の初め。施療所の兵だった者、二百八十七名。名前を呼ぶ側に、立つ。


四日目の朝、北の空に、船が三隻、現れた。

灰色の軍の船。長さ六十メートル。畑の北の端の、光る草の手前に、並んで降りた。

船の腹が開いて、兵が降りてきた。

先に、胸に丸い錘を下げた兵が、六十。錘の中で、光が脈打っていた。

そのうしろに、施療所の寝間着のような服を着た兵が、四百。腰に、粒の袋。

最後に、男が一人、降りてきた。

短い灰色の髪。鼻の上を、細い傷が一本、横切っていた。右手にだけ、黒い革の手袋。胸に下げた錘は、ほかの兵の倍の大きさで、黒かった。

男は、光る草の手前で、足を止めた。畑を、端から端まで、見渡した。

それから、言った。

『皇帝の近衛、ヴァルター・ブラント。孤独の大地から出た二百八十九名を、受け取りに来た』

声は、低かった。よく通った。

『渡さぬ者は、減らせと、言われている』


ドラグが、畑の北の端に立っていた。その横に、グロムはいなかった。ここは、海壁の街ではなかった。代わりに、ラーナが灰白色の翼を広げ、畑の番の双子、ヨルンとユランが、その横に立っていた。

ロズリンが、荷車の上に立っていた。帳面を、胸に抱えていた。

二百八十九名は、畑の南の小屋のまわりにいた。オーウェン。アディとハンナ。エミル。クララ。

マーロウは、ミラベルの横にいた。

「渡さない」

マーロウは、言った。

ヴァルターは、マーロウを見た。

『一〇六番か』

「そうだ」

『おまえに用はない。本部が、傷つけるなと言っている』

ヴァルターは、右手を、軽く上げた。

六十の錘が、いっせいに、光った。


空気が、重くなった。

マーロウの膝が、折れかけた。光る草が、一斉に、地面に伏せた。草の光が、ぐっと暗くなった。

北の端の杭の列で、眠っている人たちの寝息が、乱れた。

「…何倍だ」

『畑は、三つ分くらい。…あたしのとこだけ、三十』

ミラベルが、言った。膝まで、地面に沈みながら、立っていた。六十の錘の重さは、畑にうすく、ミラベルの上に濃く、かけられていた。

『あたし、二滴目、今』

マーロウは、鉤で、人差し指を突いた。重い腕を、無理に持ち上げた。赤い玉を、ミラベルの唇へ。

胸の奥で、何かがはまる音がした。

金属の目が、白く光った。

ミラベルが、地面を蹴った。重さの中で、地面を蹴った。


六十の錘の兵のあいだを、白い線が走った。

一人目の錘の裏の管が、抜けた。二人目。三人目。

抜かれるたびに、空気が、少しずつ、軽くなった。

その向こうで、噛む兵が、いっせいに、袋の粒を口に入れた。首筋から指先へ、白い光の筋が走った。目が、白く抜けた。四百人が、跳んだ。

「今です!」

ロズリンが、叫んだ。

畑の北の端に、二百八十七人が、並んでいた。

札を、手に持っていた。

トビーが、最初の札を、読み上げた。

『帝国暦三四六年、秋。港の街。ベン・ハーロウ』

跳んできた兵の一人が、一拍、止まった。

『帝国暦三四八年、春。カルヴァ。ミレイ・トーン』

また、一人。

二百八十七の声が、畑じゅうに、名前を呼びはじめた。呼ばれた兵が、一人、また一人と、空中で止まり、地面に落ちて、膝をついた。

マーロウは、鉤で親指の腹も突いた。膝をついた兵の口に、その血の親指をねじこんでいった。唾が粒になって、光が消えた。


五十九本目の管を、ミラベルが抜いた。

空気が、ほとんど、軽くなった。

六十本目。ヴァルターの胸の、黒い錘。

ミラベルの手が、錘の裏に伸びた。

そこに、管は、なかった。

「…管が、ない」

錘の裏は、つるりとした、硝子だった。硝子の中で、水が、揺れていた。粒が、揺れていた。硝子の中で、濡れて、ほどけていた。

『光は、硝子を通る』

ヴァルターが、言った。

『血は、通らん。名代の工夫だ。名代は断ったが、工夫は、帝国のものだ』

ヴァルターは、右手の黒い手袋を、ミラベルではなく、マーロウのほうへ向けた。

黒い錘が、光った。

マーロウの体が、地面に、叩きつけられた。

息が、できなかった。胸が、潰れそうだった。三十倍どころではなかった。

『百だ』

ヴァルターの声が、遠くから聞こえた。

『本部は、傷つけるなと言った。殺すなとは、言っていない』

ミラベルが、振り向いた。

白い光の目が、見開かれていた。

次の瞬間、ミラベルは、マーロウの上にいた。両手と両膝を地面について、マーロウの体の上に、自分の体で、屋根を作っていた。

百倍の重さが、ミラベルの背中に、のしかかった。

ミラベルの膝が、地面に、沈んだ。

「…坊やに」

ミラベルの声が、震えていた。

「触らないで。…重さでも」

ヴァルターが、ゆっくりと、歩いてきた。

第三十章 了