
第一章
海壁の腕

「落とすな!」
マーロウは、壁の上の通路を走りながら叫んだ。
『落とさないってば!』
ミラベルの声が、頭の上から降ってきた。
海壁のてっぺんから、錆びない金属の腕が一本、街のほうへ折れ曲がっていた。肘から先だけで、三十メートルはある。その先の手のひらが、椀の形に丸まって、海の水をたっぷり抱えていた。牛が泳げるほどの水だった。
手のひらの真下は、壁の内側の通りだった。人が、見上げたまま立ちすくんでいた。
ミラベルは、その手首の下にいた。壁の縁に片足をかけ、左手一本で、手首を下から押し上げていた。
手のひらは、傾かなかった。水は、一滴もこぼれなかった。
三日、走ってきた。
東の哨所から、牛の荷車で二十三日かかった道を、ミラベルはマーロウを背負って三日で走った。ミラがその横を走り、灰白色の翼のラーナ・オーヴェインが空からついてきた。畑の監督官ティルダの言いつけだった。足で届かないところへ、手紙を運べ、と。
二年のうちの、七日目の夕方。東の丘から、海壁が見えた。
高さ二十二メートルの、灰色の線。その上に、見たことのないものが立っていた。
腕だった。
壁のてっぺんが、五百メートルおきに細長く口を開けていて、そこから錆びない金属の腕が六本、空へ伸びていた。一本が二百メートルを越える長さで、禁止区を越え、乾いた海の底を越え、その先の波打ち際まで届いていた。
腕は、海に手を沈め、水を掬い、持ち上げて、壁の口へ注いでいた。注ぐたびに、壁の中が白く光った。低い音が、丘まで届いた。
ミラが、金属の目を細めた。
『…手首で、腱が、交差してる』
孤独の大地の中庭で見た腕と、同じだった。グリムのやり方だった。
そのうちの一本が、海ではなく、街のほうへ折れた。
「走れ」
ミラベルは、マーロウを背負ったまま丘を駆け下り、東門の前で降ろすと、そのまま壁を駆け上がっていった。
マーロウが階段を上りきると、通路に、オークの兵が三人倒れていた。息はあった。
その横に、左手に木槌を提げた大男が、片膝をついていた。頭が禿げ上がり、首が太く、顔に古い切り傷が三本。右の手首から先がない。ガルド・レイン。元は帝国の千人隊長で、今は東門の番をしている男だった。
「何をした」
『楔だ』
ガルドは、壁のてっぺんに開いた細長い口を、顎で指した。
『腕の出る口に、楔を打った。今日、初めてな。…打ったら、腕が戻ってきた』
「止めに来たのか」
『止めに来た顔だ。あれは』
そのとき、南から、木槌の音がした。
マーロウは、振り向いた。
五百メートル先の、次の口。そこでも腕が一本、海から離れて、こちらへ折れはじめていた。その下の通路に、小さな人影があった。木槌を振り上げて、楔を叩きこんでいる。
赤茶の髪。
ウィラだった。
『坊や! あっちも来てる!』
ミラベルが、手首を支えたまま叫んだ。
『あたし、こっち離せない! 離したら、水、落ちる!』
壁の上に、もう一つ、影が跳び上がってきた。
両腕に、光を返さない刃が二本。後ろで一本に結んだ、長い灰色の髪。ミラベルと同じ顔。
ベルだった。本部が作った二番目の刃で、ミラベルに名前の後ろ半分をもらった女だった。
ミラベルが、叫んだ。
「ベル!」
『一番。根元は、切らないでください』
ベルは、いつもの抑揚のない声で言った。
『壁の中の粒が、濡れています。根元を割ると、ほどけます』
「根元じゃなきゃ、いいんだね!」
ミラベルは、右手で名前のない剣を抜いた。
左手で手首を支えたまま、剣を一度だけ振った。
肘に、鏡のような線が走った。
腕の先の三十メートルが、肘から離れた。水を抱えた手のひらごと、ミラベルの左手一本の上に乗った。
通りの人たちが、息をのんだ。ミラベルは、揺れもしなかった。
「よいしょ」
ミラベルは、壁の外側の縁まで歩いた。
それから、三十メートルの腕を、槍でも投げるように、海のほうへ放った。
水が、夕日の中で弧を描いた。腕は、禁止区を越えて、乾いた海の底に突き刺さった。遅れて、水が砂を叩く音が届いた。
マーロウは、南へ走った。
走りながら、叫んだ。
「ウィラ! 楔を抜け!」
ウィラには、届かなかった。腕の手のひらが、ウィラの頭の上に降りてきていた。
マーロウの横を、何かが抜いていった。
ミラだった。
ミラは、五百メートルの通路を、一度も足を止めずに走り抜けた。口の縁に飛びつき、ネルが五本に戻してくれた木の指で、打ちこんだばかりの楔をつかんで、引き抜いた。
腕が、止まった。
手のひらは、ウィラの頭の、一メートル上にあった。縁から、滴が落ちた。ウィラの髪と肩が、濡れた。
滴では、時計は始まらない。手首まで浸けて、十を数えなければ。ウィラは、それを知っていた。知っていたから、動かずに、上を睨んでいた。
腕は、ゆっくりと向きを変えた。海のほうへ戻り、水を壁の口へ注いだ。
「ガルド! 楔を、全部抜け!」
兵たちが、楔を抜いてまわった。
日が沈むころ、五本の腕は、音もなく壁の口へ吸いこまれていった。肘から先のなくなった一本も、同じように引っこんだ。口が閉じた。壁の中で、低い音だけが続いていた。
ウィラが、木槌を持ったまま、マーロウの前に立った。
髪から、まだ滴が落ちていた。
『…遅い』
「三日で来た」
『手紙、読んだ?』
「二度読んだ」
ウィラは、拳で、マーロウの胸を一度叩いた。
それから、上着をつかんだ。つかんだまま、離さなかった。
ミラが、その横で、木の指を閉じて、開いた。
『…持った。楔』
ミラベルが、剣を鞘に戻しながら、飛んできた。
『坊や、見てた? 腕、投げた』
「見てた」
『あたし、偉い?』
「偉い」
『じゃあ、ここ』
ミラベルは、金属の人差し指で、自分の唇を、とんとんと叩いた。
「あとだ」
『約束ね』
マーロウは、ウィラに上着をつかまれたまま、壁のてっぺんに手のひらを当てた。
金属は、まだ温かかった。
『おかえりなさい、一〇六番』
壁が、喋った。孤独の大地の壁と、同じ声だった。
『腕を一本、確認できなくなりました。次の荷車で、二本、送ります』
「脅しか」
『いいえ。計算です』
声は、少しも変わらなかった。
『楔は、打たないでください。腕は、止める者を退けます。次は、手のひらを、傾けます』
ウィラの手が、上着の上で、固く握られた。
第一章 了