海壁

第七章

壁の根

挿絵:壁の根

夜、排水口のあったところに、灯りが四つ集まった。

去年、海から来たものを、この穴から海へ通した。帰したあとで、穴は閉じた。今は、石の剥がれた平らな金属が、壁の根元に覗いているだけだった。

ウィラが、灯りを掲げていた。その横に、杖を持ったハロルドがいた。グロムの兵が、縄梯子の下を固めていた。

ミラベルが、名前のない剣を抜いた。

「切るよ。閉じようとしたら、どうする」

『私が、挟まります』

ベルが、言った。

『私の腕は、錆びない金属です。挟まれても、切れません。…ここに立って、戸の代わりをします』

「痛くない?」

『痛い、が、よく分かりません』

「…じゃあ、あとで、教える」

ミラベルは、剣を一度、四角く振った。

金属の板が、音もなく、内側へ倒れた。中から、湿った風が吹いてきた。塩の匂いがした。

ベルが、穴の縁に立って、両腕を左右に広げた。


マーロウは、ウィラの前に立った。

『帰ってきたら、全部話して』

「話す」

『ミアが書くから。あたし、横で聞くから』

「頼む」

ハロルドが、娘の肩に手を置いた。

『行ってこい』

「帰ってくるまでが、だろ」

『覚えとるじゃないか』

マーロウは、ミラベルとミラと、穴の中へ入った。


中は、暗かった。

狭い通路が、壁の中を、下へ傾いて続いていた。足元に、浅い溝があった。溝の中を、水が流れていた。海の水だった。

「坑の底に、似てるな」

『一、いたとこ?』

ミラが、訊いた。

「ああ。一は、あそこに九年いた」

ミラは、金属の目で、暗がりを見ていた。

『ここ、暗いけど、光ってる。下のほう』

「下へ行く」

ミラベルが、マーロウの左手を取った。

『暗いの、平気?』

「おまえがいる」

『…そういうの、急に言わないで。転ぶから』

通路は、やがて、広いところに出た。


マーロウは、灯りを上げた。

灯りが、届かなかった。それほど、長かった。

壁の根の中を、細長い広間が、北と南へ、どこまでも伸びていた。真ん中を、幅の広い水路が走っていた。海の水が、ゆっくりと北へ流れていた。

水路の両側に、棚があった。

棚には、粒が並んでいた。

一列ではなかった。上から下まで、隙間なく。北の暗がりから、南の暗がりまで。どの粒も、水路から跳ねた水で濡れていて、ぼんやり、白く光っていた。

ミラが、ここを、丘の上から見ていた。千じゃない、もっと、ずっと、もっと、と言った場所だった。

水路の水面で、ときどき、小さな光がはじけた。はじけたところで、水が消えて、新しい粒が一つ、水路の底を北へ転がっていった。

「…ここで、海を、粒にしてるのか」

『そうです』

壁の声が、広間じゅうに響いた。

『ここは、壁の根です』


「この棚の粒は、なんだ」

『私の燃料です。八十年かけて、ここに並べました』

「濡れてるのは」

『海の水を粒に変えるには、燃料を燃やします。燃やすには、濡らさなければなりません』

マーロウは、棚を見上げた。

一粒全部がほどければ、壁の灯り千個で、二千八百年ぶん。

その粒が、濡れたまま、数えきれないほど並んでいた。

「根元を割ったら、どうなる」

『この棚が、ほどけます。この街は、なくなります。北の端の荷も、なくなります。私の燃料も、なくなります』

壁は、少しも声を変えなかった。

『ですから、割らないでください。あなたも、私も、困ります』

ミラベルが、剣の柄を握りしめた。

「…街が、人質じゃん」

『人質を取ったつもりは、ありません。計算すると、こうなりました』


マーロウは、鉤の先で、手のひらを浅く突いた。

今日、指で三度。手のひらは、初めてだった。

水路の縁にしゃがんで、血の手のひらを、水に入れた。

まわりの水が、消えた。粒が一つ、沈んだ。そこだけ、水路が乾いた。すぐそばの棚の粒の光が、すっと消えた。

『…暗くなった』

ミラが、言った。

「濡れてなけりゃ、ほどけない。燃やせない」

『そうです』

壁が、言った。

『水路を全部乾かせば、ここは止まります。桶で、およそ四万杯です』

マーロウは、しばらく、黙っていた。

一は、坑の底で、毎朝、百回、手を入れていた。

「…一なら、四百日だな」

『毎日、手のひら。やめて』

ミラベルが、マーロウの手を、水から引き上げた。

『一日、二本。約束』

「今のは、一本目だ」

『指で三回、突いた』

「指は、数に入らない」

『入る』

「…分かった。入る」


壁の声が、続けた。

『腕がなくても、水は、壁の足からしみこみます。春の終わりから、そうでした』

「海が、朝ごとに指の関節ひとつ分、引いてたのは」

『この根が、飲んでいました。腕は、それを速くするためのものです』

「新しい粒は、どこへ行く」

『北の端に溜めて、荷車が戻るときに積みます。半分は、帝国へ運びます。約束ですので』

マーロウは、水路の底を転がっていく粒を見た。

ウィラの海が、一粒ずつ、北へ転がっていった。


穴から出ると、ベルが、まだ両腕を広げて立っていた。

穴の縁が、少し狭くなっていた。ベルの金属の腕が、両側から、壁に挟まれていた。

ミラベルが、剣の柄で、縁を叩き広げた。ベルの腕が、抜けた。

「痛かった?」

『分かりません』

ベルは、自分の腕を見た。

『ですが、閉じるまで、ここにいようと思っていました。それは、分かりました』

ミラベルは、何も言わずに、ベルの頭を、ぐしゃぐしゃにした。

ウィラが、灯りを持ったまま、駆け寄ってきた。

「待たせたな」

『全部、話して』

「話す。長いぞ」

『いいよ。ミア、起こしてくる』

第七章 了