海壁

第二十九章

名前の帳面

挿絵:名前の帳面

ラーナは、畑の端の小屋の前に、翼を広げて降りた。

前脚から、ネルが転がり落ちた。腕に巻いた布が、ほどけかけていた。

ネルは、砂の上に座りこんだまま、顔を上げた。

小屋の前に、灰色の髪の男が、立っていた。削りかけの木の指を、握ったまま。

オーウェンは、一拍、止まった。

それから、言った。

『…ネル』

「…親父」

ネルは、立ち上がれなかった。六日、ぶら下がっていた腕だった。

オーウェンが、歩いてきた。まだ、足取りは遅かった。それでも、歩いてきて、娘の前に、しゃがんだ。

長く節くれだった指で、ネルの腕の布を、ほどいた。赤くなった腕を、黙って、さすった。

『…うちの、手だ』

オーウェンは、言った。

『よく、直してきた』

ネルは、何も言わなかった。父親の肩に、額を押しつけた。


その夜、小屋の中に、みんなが集まった。

ティルダ・ノームが、灯りの下で、帳面を開いていた。灰色の外套、胸に羽根の印。髪を、きっちり結っている。

ラーナが、翼をたたんで、報告した。

『帝国の船が三隻、北から来ています。途中で、止まっては兵を積んでいます。畑に着くのは、四日後の朝です』

「兵は」

『重い錘を胸に下げた兵が、六十ほど。噛む兵が、四百』

小屋の中が、静かになった。

「重さの兵は、ふつうの兵だ」

マーロウは、言った。

「胸の錘の裏に、水の管がある。管を抜けば、重さが消える」

『六十本』

ミラベルが、言った。指を折って、六まで数えて、やめた。

『坊やが近くにいれば、二滴目で、全部』

「噛む兵は」

ロズリンが、帳面を閉じた。

『噛む兵は、施療所の兵です。変わった人です。…名前を呼べば、一拍、止まります』

「四百人ぶんの、名前がいる」

『はい』

ロズリンは、小屋の裏のほうを、見た。

『名前を知っている人が、一人、この畑にいます』


小屋の裏の柱に、ヒューゴ・ランベールが、縄でつながれていた。

痩せて、背が高い。白い服は、もう白くなかった。それでも、背筋だけは、まっすぐだった。

ロズリンが、ヒューゴの前に立った。

『帝国東部の施療所十二。そこから出た兵の名前を、教えてください』

ヒューゴは、ロズリンを見なかった。

「教えれば、私は、帝国の者ではなくなります」

『今は、帝国の者ですか』

ヒューゴは、答えなかった。

ネルが、柱の横に、しゃがんだ。海壁の街の施療所が止まった、とネルは言った。ロドリク・ヘイルって医官が、帳面を取り上げられた、と。

ヒューゴの目が、わずかに動いた。

「…ロドリクは、私の下に、おりました」

そのとき、暗がりから、若い男が一人、歩いてきた。

痩せた、ひょろ長い男。襟に、もう数字の札はなかった。

施療所の兵だった男。畑で、名前を呼ばれて、膝をついた男。

『…ヒューゴ様』

男は、言った。まだ、少しだけ、丁寧すぎる言い方だった。

『わたしの名前は、トビー・マーシュです。東の谷の』

ヒューゴが、顔を上げた。

『あなたが、判を押した名前です』

トビーの声は、震えていなかった。

『覚えて、いらっしゃいますか』

長い、間があった。

ヒューゴは、目を閉じた。

「…帝国暦三四七年、冬。東の谷。トビー・マーシュ。重さ、六十四」

ヒューゴは、言った。

「覚えて、おりました。全員。…覚えていないことに、していただけです」

ヒューゴは、目を開けた。ロズリンを見た。

「書いてください。私が、言います」


ロズリンは、朝まで、書いた。

ヒューゴが、一人ずつ、言った。年と、季節と、町と、名前。ロズリンが、それを写した。ティルダが、横で、札の数字を並べた。

百。二百。

ドラグは、ロズリンの横に座っていた。何も言わなかった。灯りの油が切れかけると、足した。

三百を過ぎたころ、ロズリンの筆が、止まった。

眠っていた。筆を持ったまま、ドラグの腕に、頭をのせて。

ドラグは、動かなかった。

『書くやつが、寝とる』

ドラグは、小さく言った。

『…動かすわけに、いかん』

ティルダが、ロズリンの手から、そっと筆を取った。自分の帳面に、続きを書いた。

ヒューゴが、四百人目の名前を、言い終えた。


夜明け前、マーロウとミラベルは、荷車の下にいた。

東の哨所の荷車ではなかった。畑の端の、古い荷車だった。

それでも、ミラベルは、荷車の下にもぐりこむと、マーロウの腕の中に収まった。

『ここ、落ち着く』

「荷車の下がか」

『坊やと、荷車の下。…あのとき、離れないって、言った』

「言った。守れなかった」

『今は、守ってる』

ミラベルは、マーロウの手を取って、自分の胸に当てた。

『明日、一緒にいてね。遠くに、行かないで』

「行かない」

『ずっと、横にいて。…あたし、坊やが近くにいると、いちばん強いから』

マーロウは、ミラベルの髪に、顔を埋めた。

「知ってる」

北の空が、白みはじめていた。

帝国の船が着くまで、あと三日だった。

第二十九章 了