第五章
あたしの指示

「どいて、ベル」
ミラベルが、言った。
『どきません。指示です』
ベルは、刃を下げたまま、動かなかった。
マーロウは、一歩、前に出た。
ベルの右の刃が、上がった。刃の先が、マーロウの喉の前で、止まった。指一本ぶん、手前で。
『一〇六番。下がってください』
「下がらない」
『では、退けます』
刃が、動いた。
その刃を、ミラベルの左手が、つかんでいた。
錆びない金属の指で。刃は、指を切れなかった。いつ動いたのか、マーロウには見えなかった。
ベルの左の刃が、下から来た。ミラベルの右手が、ベルの左の手首をつかんだ。肉のほうの手で。刃は、ミラベルの脇腹の手前で止まった。
二本とも、止まった。
ミラベルは、朝の一滴しか、飲んでいなかった。
「坊やに、触らないで」
ミラベルの声は、低かった。
「ベルでも。…ベルだから、なおさら」
ベルは、腕を引こうとした。引けなかった。
刃を押しこもうとした。押しこめなかった。
力の差は、比べるまでもなかった。一滴だけの一番にも、二番の刃は、指一本ぶんも届かなかった。
それでも、ベルは、引かなかった。
『退けられないなら、私が、ここにいます』
ベルは、言った。
『私を動かすには、私を壊すしかありません』
ミラベルの手が、震えた。
壊すのは、簡単だった。手首を少しひねれば、それで終わる。マーロウにも、それは分かった。ミラベルにも、分かっていた。
だから、ミラベルの手は、震えていた。
「…できるわけ、ないじゃん」
『はい。一番は、しません。そう計算しました』
「計算しないでよ!」
ミラベルが、叫んだ。
「妹なんだよ! あたしが名前あげた、妹なんだよ!」
マーロウは、二人の横に立っていた。
刃を握ったミラベルの左手と、手首を握ったミラベルの右手。そのあいだにいる、同じ顔。
昨日、ベルは言った。数字を報せても、誰も困らないと計算した、と。
この女は、決めたことがない。本部が決めて、ベルはそれをしてきた。決める練習を、したことがないのだ。
マーロウには、そう思えた。
「ミラベル」
『なに』
「おまえが言え。姉貴だろ」
ミラベルが、マーロウを見た。
それから、ベルを見た。
しばらく、黙っていた。
「…分かった。じゃあ、あたしも、指示する」
ミラベルは、ベルの刃を握ったまま、顔を近づけた。額と額が、くっつきそうになった。
「お姉ちゃんの指示。…守りたいものは、自分で決めて」
ベルの金属の目が、ミラベルの茶色い目を、見ていた。
『…指示が、二つになりました』
「なったね」
『本部の指示は、昨夜です。一番の指示は、今です』
ベルは、少しだけ首を傾げた。ミラベルと同じ角度で。
『後から来た指示を、優先します』
「それで、いい」
『では、決めます。守りたいものを』
ベルは、ミラベルの肩ごしに、杭の列を見た。
細くて、きっちりした字の板が、波打ち際まで並んでいた。この春から、毎朝、自分で刻んできた数字だった。
『杭の数字です』
ベルは、言った。
『数字が、これ以上、減らないこと。…海が、ここにあること』
ベルの両腕から、刃が消えた。
ミラベルの手の中で、光を返さない線が、するりと腕へ戻っていった。
ベルは、壁のほうへ歩いた。
壁の根元に、手のひらを当てた。毎朝、数字を報せてきた場所だった。
「二番より、本部へ」
『二番』
壁が、答えた。
「ベルです」
『…ベル』
壁の声は、少しも変わらなかった。
『報せてください』
「海壁の腕を守れという指示を、受けません。…やだ、です」
ベルは、それだけ送って、手を離しかけた。
それから、もう一度、当て直した。
「理由は、訊かれたら、答えます」
『理由を、報せてください』
「守りたいものを、自分で決めました」
壁は、しばらく黙っていた。
『毎朝の数字の報せは、続けますか』
「決めていません。決めたら、言います」
ベルは、今度こそ、手を離した。
振り返ったとき、ミラベルが、もう目の前にいた。金属の腕と、肉の腕で、ベルを抱きしめた。
「…ばか。ばか、ばか、ばかベル」
ベルは、手の置き場所に、迷わなかった。ミラベルの背中に、両手を回した。
『ミラベル』
ベルが、言った。
一番、ではなかった。
ミラベルは、声を上げて泣いた。
「…うん。うん」
壁の上で、低い音が、急に大きくなった。
マーロウは、見上げた。
壁のてっぺんの口から、腕が六本、いっせいに起き上がっていた。肘から先のない一本も、その中にいた。五本の手のひらは、どれも、海の水を抱えていた。
腕は、海へ戻らなかった。
五つの手のひらが、ゆっくりと、街のほうへ向いた。縄梯子の上で、ウィラが、壁の縁をつかんでいた。
『一〇六番』
壁が、言った。今度は、マーロウに。
『二番を、確認できなくなりました。ですから、あなたに、直接お伝えします』
「言え」
『排水口に、近づかないでください。近づけば、手のひらを傾けます。一本ずつ』
「脅しか」
『いいえ。計算です。止める者を、退けます』
マーロウは、排水口のあったところを見た。去年、海から来たものを通したあとで閉じた穴。今は、石の剥がれた、平らな金属が覗いているだけだった。
そこまで、五十メートルだった。
ミラベルが、ベルを抱いたまま、顔を上げた。
「ベル。あの水が落ちたら、どうなる」
『手のひら一つで、牛が泳げるほどの水です』
ベルは、ミラベルの腕の中で、壁のてっぺんを見ていた。
『五つで、通りが三本、水の底になります。そこにいる人は、手首どころか、首まで浸かります』
十一日の時計が、通り三本ぶんの人に、いっぺんに始まる。
マーロウは、排水口から、目を離せなかった。
第五章 了