海壁

第十三章

三十三隻

挿絵:三十三隻

昼前、東の空が、暗くなった。

雲ではなかった。船だった。

先頭に、灰色の軍の船が三隻。長さ六十メートルの、一年前にこの街へ落ちてきたのと同じ形の船。そのうしろに、ずんぐりした船が、列になって続いていた。

ミアが、数えていた。

「…三十。三十三隻です」

船は、東門の外の平らな荒れ地に、次々と降りた。砂が舞い上がって、しばらく何も見えなかった。

街じゅうの屋根の上に、人がいた。


先頭の船の腹が開いて、灰色の軍服の兵が降りてきた。五十人ほど。二列に並んだ。

そのあいだを、女が一人、歩いてきた。

銀色の髪を、顎の線でまっすぐに切りそろえた、四十くらいの女。薄い灰色の目。表情が、どこにも出ていない顔。皇帝の名代、セラフィナ・ロウ。

孤独の大地へマーロウを運び、白い道でミラベルに手袋を引き裂かれ、帝都へ戻った女だった。

灰色の革の手袋を、はめていた。

指先の十本に、何か小さなものが光っていた。硝子の、指ぬきのようなもの。マーロウには、それが何か分からなかった。

セラフィナは、東門の前で、足を止めた。

門の前には、ガルドとグロムが立っていた。その横に、マーロウとミラベル、ミラとベル。うしろに、ハロルドとウィラ。ニムとガス。帳面を抱えたミア。サイラスは、少し離れて、眼鏡を押さえていた。

『お久しぶりです、一〇六番』

「来るのは、知ってた」

『存じております。早馬のすぐあとに、帝都を出ましたので』

サイラスが、肩をすくめた。


セラフィナは、マーロウではなく、屋根の上の人たちを見上げた。

声を、張り上げはしなかった。それでも、よく通る声だった。

『帝国は、この街の皆さんを、帝国の東の町へお連れします。家と、水と、仕事を用意しました。子どもには、学びの場も』

屋根の上が、ざわめいた。

『二年たてば、この街の海は、なくなります。海のない海壁の街に、残る理由は、ありません』

マーロウは、西の壁のほうを振り向いた。

「本部。聞いてるんだろ。今のは、本当か」

壁の声が、街じゅうに響いた。

西の端の壁から、東門まで。遠いはずなのに、耳のすぐそばで聞こえた。

『名代の言ったことは、本当です』

平らな声だった。

『船に乗る人の上に、手のひらを傾けることは、ありません』

屋根の上のざわめきが、止まった。

乗らない人の上には、傾けるかもしれない。そう聞こえた。誰の耳にも。

船は三日後の朝に出ます、とセラフィナが言った。本部の荷車が、腕を運んでくる朝です。それまでに、乗る方は、名前を。


屋根の上から、若い男が一人、降りてきた。赤ん坊を抱いた女が、あとに続いた。二人は、兵の前に立って、名前を言った。兵が、紙に書いた。

続いて、もう一組。もう一組。

ウィラが、唇を噛んでいた。

ガスが、一歩前に出た。三本の指で、自分の胸を叩いた。

おれは残る、とガスは言った。おれは残る。三回目は、やっぱり短かった。残る。

ニムが、ガスの横に並んだ。腰までしかない背丈で、胸を張った。

冗談じゃないわ、とニムは叫んだ。百六十年やってきた店を、置いていけるか。

ハロルドは、何も言わなかった。杖に体を預けずに、ただ、門の前に立っていた。それが答えだった。

ミアが、帳面を開いた。

「乗る人の名前も、残る人の名前も、あたしが書きます」

セラフィナの目が、ミアに向いた。

『名前を、書くのですか。数ではなく』

「数は、名前を数えれば出ます。名前は、数からは出ません」

ロズリンの言葉だ、とマーロウは思った。

セラフィナは、しばらく、ミアを見ていた。それから、少しだけ、顎を引いた。


『一〇六番』

セラフィナが、マーロウに向き直った。

『施療所の医官、ロドリク・ヘイルを、返していただきます。帝国の者です』

「返さない」

『理由を』

「あの男の帳面に、二百四十一人の名前がある。一人ずつ、どこへ売ったか、書いてある。…おれの母親も、その中にいる」

セラフィナは、瞬きを一つした。

『では、今夜、いただきに参ります』

「来るなら、来い」

『そのつもりです』

ミラベルが、マーロウの前に、半歩出た。

「手袋、新しいね」

『三組目です』

「また、ばらばらにするよ」

『二組目までは、そうでした』

セラフィナは、それ以上、何も言わなかった。背を向けて、船のほうへ歩きだした。


先頭の船の腹の戸口に、小さな人影が立っていた。

女の子だった。九つくらい。銀色の髪を、顎の線で切りそろえている。昼の光の中なのに、両手で、火の入った小さな灯りを抱えていた。

「…おかあさま」

女の子が、言った。

セラフィナの足が、止まった。

表情のない顔に、初めて、はっきりと何かが走った。

『エステル。…中に、いなさいと言ったでしょう』

女の子は、灯りを抱えたまま、首を振った。

「中、暗いの」

ミラベルが、息を止めていた。

灯りがないと眠れない、九つの娘。帝国の、二千万のうちの、いちばん重い一人。

セラフィナは、その娘を、船に乗せて連れてきていた。

第十三章 了