第四章
杭の数字

昼過ぎ、マーロウは、壁の上から縄梯子を降りた。
禁止区の白い地面は、去年の冬より、ずっと広くなっていた。その先に、乾いた海の底が続いていた。槍の折れた先、鎖の切れ端、昨日ミラベルが投げた三十メートルの腕。全部、底に転がっていた。
乾いた砂では、時計は始まらない。マーロウは、海に触れても変わらない体だ。それでも、ウィラは縄梯子の上から、マーロウの足元をじっと見ていた。
禁止区のいちばん南。壁と、昔の海が交わっていたあたりの、平らな岩。
ベルは、そこに座っていた。
岩のそばに、小さな石が一つあった。何も彫っていない石。
母の石だった。
マーロウは、その前に立った。
今朝、白い花の木の下で、ハロルドは石に話しかけていた。毎朝そうしている、迷いのない声で。
マーロウは、しゃがんだ。
「…帰ってきた」
それだけ言った。
しばらく、黙っていた。それから、もう一言、足した。
「兄貴がいた。一っていう。…あんたが産んだんじゃないが、兄貴だった。死んだ」
ミラベルが、後ろで、息を止めていた。
マーロウは、立ち上がった。膝の砂を払った。
ベルが、岩の上から、それを見ていた。
岩から海のほうへ、杭が一列に並んでいた。
一本ずつ、下に数字を書いた板が打ちつけてある。ベルの字だった。細くて、きっちりした字。杭の列は、波打ち際まで、二百メートル以上続いていた。
「ベル」
『はい』
「昨日、なんで知ってた。壁の中の粒が、濡れてるって」
ベルは、少しも迷わなかった。
『本部に、聞きました』
「いつ」
『春の終わりです。壁が鳴りはじめた夜に。杭の数字を報せたとき、ついでに、訊きました』
ミラベルが、一歩前に出た。
「…報せた?」
『はい』
ベルは、いつもの声で言った。
『私は、毎朝、この街の数字を、本部に報せています。去年の秋からです』
風が、白い地面の上を渡った。
『一番が、本部の指示を断ったあとです。代わりに、私に指示が来ました。この街の数字を、毎朝報せること。海の高さ。街が一日に作る粒の数。灯りの数』
ベルは、少しだけ間を置いた。
『一番の損耗記録も、報せました』
ミラベルの顔から、表情が消えた。
「…あたしの、指も?」
『はい。本部は、それで、一番の指が戻る理由を、計算しました』
マーロウは、思い出していた。街を出る少し前、壁に手を当てて訊いた夜のことを。ミラベルの指が戻る理由は分かるか、と訊いた。いつからだ、と訊いた。
二か月前からです。壁は、そう答えた。
あの数字は、ベルが運んでいた。
「なんで、言わなかったの」
ミラベルの声が、震えていた。
『訊かれませんでしたので』
「…それ、本部の言い方じゃん」
『はい。私は、本部で作られました』
ミラベルは、何か言おうとして、言えなかった。
口を開けて、閉じた。もう一度開けて、また閉じた。
それから、叫んだ。
「やだ! ベルがそういう言い方するの、やだ!」
ベルは、首を傾げた。
『やだ、は、分かります。一番は、去年、本部に、やだと送りました』
ベルは、自分の手のひらを見た。
『私は、送りませんでした。送る理由が、ありませんでした。数字を報せても、誰も困らないと、計算しました』
マーロウは、ベルを見ていた。
ミラベルと同じ顔。ミラベルより、少しだけ細い顎。瞬きをしない、金属の目。
この女は、嘘をついていない。本部と同じだった。嘘をつかずに、訊かれないことを言わなかった。
「困ったか」
マーロウは、訊いた。
『…分かりません』
ベルは、少し考えた。
『ロズリン・ヴェイクに、間違いは記録して直すと、習いました。…これは、間違いでしたか』
「間違いかどうかは、おまえが決めろ」
マーロウは、言った。
「決めたら、言え。おれにでも、ミラベルにでも」
ベルは、長いこと、杭の列を見ていた。
『…はい』
ミラベルは、岩から離れて、背中を向けていた。
肩が、小さく揺れていた。
マーロウは、その横に立った。何も言わずに、左手を出した。
ミラベルは、振り向かずに、その手を取った。赤い紐どうしが、触れた。
『…坊や』
「なんだ」
『あたし、ベルのこと、妹だと思ってた』
「今もだろ」
『今も。…だから、やなの』
ミラベルは、マーロウの手を、痛いほど握った。マーロウは、痛くなかった。痛くないぶん、握られている強さだけが、よく分かった。
ベルが、岩から降りた。
二人の前に来て、立った。
「どうした」
『もう一つ、報せることがあります。…訊かれては、いませんが』
マーロウは、ベルの顔を見た。
訊かれたことにだけ答えてきた女が、訊かれていないことを言おうとしていた。
『昨夜、指示が来ました。一番が腕を一本落とした、あとです』
「何の指示だ」
『二番へ。海壁の腕を、守りなさい。腕を止める者があれば、退けなさい』
ミラベルが、振り向いた。
ベルの両腕から、刃が伸びた。光を返さない、薄く長い刃が二本。
『一〇六番は、排水口から、壁の中へ入るつもりですね。ウィラが、ミアに、そう話していました』
ベルは、刃を下げたまま、一歩、横へ動いた。
壁の根元の、排水口へ続く道の上だった。
『一番。一〇六番。…ここから先は、通せません』
第四章 了