第三十一章
止まりなさい

ミラベルの背中が、少しずつ、下がってきた。
マーロウは、その下で、仰向けになっていた。息が、浅くしかできなかった。ミラベルの両腕が、顔の横で、震えていた。金属の腕も、肉の腕も。
「…どけ。おれは、いい」
『やだ』
「潰れるぞ」
『潰れない。…あたし、一番強いもん』
ミラベルの額から、汗が一滴、マーロウの頬に落ちた。
二滴目の光が、金属の目の中で、ちらついていた。燃やしている。体の中の水を、全部。百倍の重さを、支えるためだけに。
ヴァルター・ブラントが、二人の横で、足を止めた。一番、そのまま動くな、とヴァルターは言った。
それから、振り向いて、兵に命じた。二百八十九名を、船へ。
船の腹から、錘をつけていない兵が、二十人ほど降りてきた。剣を抜いて、畑の南の小屋のほうへ、走っていった。
ドラグが、立ちふさがった。一人を、肩越しに投げた。二人目を、腕ごと抱えこんだ。三人目の剣が、ドラグの肩を裂いた。
ラーナが、翼で二人を薙いだ。ネルが、鉤を振った。オーウェンが、削りかけの木の指を握って、娘の前に立っていた。
それでも、兵は、小屋に着いた。
小屋の前に、ハンナ・ノールがいた。その後ろに、アディ。
兵の一人が、ハンナの腕をつかんだ。
アディが、動いた。
母親の前に、立った。
それから、兵ではなく、畑の北を見た。ヴァルターの胸の、黒い錘を、見た。
アディの唇が、動いた。
「…止まりなさい」
大きな声では、なかった。丁寧な、いつもの声だった。
それでも、その声は、畑じゅうに、届いた。
ヴァルターの胸で、黒い錘が、震えた。
硝子の中の光が、一度、大きく揺れた。
それから、消えた。
マーロウの胸の上から、重さが、すっと引いた。
ミラベルの背中が、跳ね上がった。
ヴァルターが、自分の胸の錘を見下ろした。硝子の中で、粒は、濡れたまま、光っていなかった。水が、揺れているだけだった。
『…何を、した』
誰も、答えなかった。
アディ自身が、いちばん、驚いた顔をしていた。自分の口に、手を当てていた。
ハンナが、兵の手を振りほどいて、息子の腕をつかんだ。
「…アディ」
アディは、母親の顔を見た。
『…わたし、何を、いたしましたか』
荷車の上で、ロズリンの胸の硝子の板が、白く光っていた。
ロズリンが、板を持ち上げた。
白い字が、浮かんでいた。
ノールの声を、確認しました。
十二のうち、二。
ロズリンの手が、震えた。
「ロズリン。なんて出た」
ロズリンは、板を、高く掲げた。
『十二のうち、二、です』
ミラベルが、立ち上がっていた。
膝が、震えていた。唇が、白く乾きかけていた。それでも、立っていた。
ヴァルターの前に、歩いていった。
ヴァルターは、剣の柄に、手をかけた。
ミラベルは、剣を抜かなかった。ヴァルターの胸の、光らなくなった黒い錘を、金属の指でつまんだ。
ぱきん、と、硝子が割れた。
濡れた粒が、こぼれた。
マーロウが、鉤で手のひらを突いて、横から差し出していた。こぼれた粒を、受けた。水が粒になって、何も起きなかった。
「坊やに、触らないでって、言ったでしょ」
ミラベルは、言った。
「重さでも。…だめなの」
ヴァルターは、剣から、手を離した。
長いこと、ミラベルを見ていた。それから、小屋の前のアディを見た。
『…名代が、断った理由が』
ヴァルターは、言った。
『少しだけ、分かった』
ヴァルターは、兵を連れて、船へ戻った。
名前を呼ばれて膝をついた噛む兵は、動かなかった。三百九十一人。
ミラベルが、膝から崩れた。
マーロウは、その体を受け止めて、人差し指を鉤で突いた。三滴目を、唇に落とした。
金属の目の光が、すっと引いた。
『…潰れなかった』
「潰れなかったな」
『一番強い?』
「一番強い」
ミラベルは、マーロウの胸に、顔を埋めた。
『…坊や、生きてる』
「生きてる」
『今日も、いた』
「いた」
ティルダが、膝をついた噛む兵たちの前で、帳面を開いていた。
『預かります。…いつか、帰るまで』
三隻の船が、北の空へ、上がっていった。
第三十一章 了