第二十八章
畑の昼

走りだして六日目の昼、南の地平に、光る畑が見えた。
昼の光の中でも、草が、ぼんやり光っていた。その光の中に、杭の列が、どこまでも並んでいた。二万人が、そこで眠っていた。
ミラベルは、畑の手前で、足を止めた。砂が、一粒も跳ねなかった。
マーロウは、ミラベルの背中から降りた。五日、背負われていた脚が、少しふらついた。
『坊や、重くなった』
「なってない」
『なった。幸せ太り』
「…言ってろ」
ミラが、横で、金属の目を細めていた。畑の真ん中の、少し盛り上がった土を、見ていた。
一の墓だった。
杭の列のあいだから、大きな影が、走ってきた。
灰色の肌。牙。ドラグだった。
その後ろを、帳面を抱えた女が、小走りに追ってきた。眼鏡。ロズリン・ヴェイク。
ドラグは、マーロウの前で止まった。息を切らしていた。
『…早かったな。二年のうちの、何日目だ』
「三十六日目だ」
『ラーナは、まだ戻っとらん。列は、二十五日目に、ここに着いた』
「今日の夕方には、着く。ネルを抱えてな」
ロズリンが、追いついた。眼鏡を押し上げて、マーロウを見て、それから、ミラベルを見た。
ミラベルは、帯のあいだから、板切れを出していた。
ミラベル・グリム・ケイン。
ロズリンは、しばらく、その板を見ていた。
それから、帳面を開いて、新しい頁に、何も言わずに、書いた。
帝国暦三四九年、夏の初め。ミラベル・グリム、名字をもう一つもらう。ミラベル・グリム・ケイン。
『書きました』
「…ミアも、同じこと書いてたよ」
『ミアは、私の後を継いだ人です。同じことを書くのは、当然です』
ロズリンは、帳面を閉じた。
それから、ミラベルを、抱きしめた。帳面を持ったまま。
『おめでとうございます』
ミラベルは、目を丸くした。ロズリンに抱きしめられたのは、初めてだった。
「…ありがと」
ドラグが、横を向いて、咳払いをした。
『…遅いわ』
「何がだ」
『名字。おれは、畑の東の端から、ずっと、まだかと思っとった』
畑の端の小屋の前で、パンの焼ける匂いがしていた。
アディ・ノールが、土の窯の前に、しゃがんでいた。その横で、手の甲に火傷の痕のある女が、薪をくべていた。アディの母、ハンナ・ノール。
アディは、マーロウに気づくと、立ち上がって、頭を下げた。
『お帰りなさいませ』
それから、少しだけ、首をまっすぐに戻した。
『…お帰り、なさい』
言い直した。丁寧でないほうの言い方に、少しだけ、近づけて。
「ただいま」
ハンナが、焼けたパンの端を、一つ、マーロウの手にのせた。
『あの子が、焼いたの。毎朝』
「うまい」
『でしょう』
ハンナは、アディの頭に、窯の火で焼けた手を置いた。
小屋の裏に、オーウェン・グリムがいた。
灰色の髪。頬は、まだこけていた。それでも、長く節くれだった指で、木を削っていた。義手の指の形だった。
オーウェンは、マーロウを見て、一拍、止まった。
それから、言った。
『…ネルは』
「今日の夕方、翼で着く」
オーウェンの指が、止まった。
しばらく、削りかけの木の指を、見ていた。
『…あの子は、手が、いいだろう』
「いい」
マーロウは、言った。
「あんたの言ったとおり、うちの手だった」
オーウェンは、何も言わなかった。削りかけの指を、陽にかざして、また削りはじめた。
その口の端が、少しだけ、上がっていた。
光る草のあいだに、若い女が一人、座っていた。
灰色の服。まっすぐな背筋。草の汁の椀を、両手で持っていた。
マーロウは、その前に、しゃがんだ。
「クララ・ストラウド」
女が、一拍、止まった。
『…はい』
「ルーカスから、伝言だ。海壁の街にいる。海のそばで、戻ってる」
女の手の中で、椀が、少しだけ揺れた。
『…ルーカス』
女は、その名前を、自分の口で、言った。
それから、長いこと、北の空を見ていた。
夕方、畑の真ん中の、少し盛り上がった土の前に、マーロウは座った。
板に、一、と刻んであった。ロズリンの字だった。
ミラベルとミラが、少し後ろに立っていた。
「…帰ってきた」
マーロウは、言った。
「海壁の街の海は、まだある。腕は、開いたままの手になった。根の口にも、留めを入れた。ミラが入れた。…ネルに、本物のグリムだって、言われた」
ミラが、後ろで、木の指を開いて閉じた。
「それと」
マーロウは、少し黙った。
「嫁が、できた。名字をやった。ケインだ。…あんたと、おそろいのやつだ」
風が吹いて、光る草が揺れた。
ミラベルが、後ろから、マーロウの肩に手を置いた。それから、墓の板に向かって、頭を下げた。
『一さん。ミラベル・グリム・ケインです。…坊やのこと、もらいました』
東の空に、灰白色の点が一つ、見えた。
点は、見るまに大きくなった。翼の下で、誰かが、布を巻いた腕で、しがみついていた。
第二十八章 了