海壁

第三十二章

それぞれの道

挿絵:それぞれの道

朝、白い道の脇で、列が動きだす支度をしていた。

ドラグが、灰色の服の人たちに、アディの荷車から下ろした水の樽を、一人ずつ確かめさせていた。オーウェンは、板から荷車の荷台に移されていた。ネルが、その横に座っていた。

『歩きで、掘削地まで半月』

ドラグが、西を見て言った。

『そこから南へ、畑まで、また十日はかかる。…遅い列だ。だが、一人も置いていかん』

マーロウは、その横に立った。

「先に行く。ミラベルとミラと、三人で」

『分かっとる』

ドラグは、西を見たまま言った。

『二年のうちに、十二人、起こして、塔の下まで連れていく。…兄貴が遅れた、とは、言わせん』

「おれは、あんたの弟じゃない」

『知っとる。だが、似たようなもんだ』

ドラグは、マーロウの肩を、大きな手で一度だけ叩いた。痛くなかった。痛くなくても、重かった。


ネルは、ミラベルに抱きつかれて、よろけていた。

「親戚ぃ…」

『重い。金属のほう、重いって』

ネルは、振りほどかなかった。

それから、腰の袋から、小さな木の手を一つ出した。親指ほどの大きさの、削った手。店の軒先に吊るしてあった看板の手と、同じ形だった。

『やる。お守り』

「…いいの?」

『グリムの家の者は、みんな、一つ持ってる。…あんたも、グリムだろ』

ミラベルは、木の小さな手を、両手で包んで、胸に押し当てた。

ミラが、その横で、五本に戻った木の指を、閉じて、開いてみせた。ネルが、笑った。


アディ・ノールは、母親の手を引いて、荷車の御者台の横に立っていた。

マーロウが通りかかると、アディは、丁寧に頭を下げた。

それから、顔を上げた。

口の端が、動いた。

今度は、はっきりと。

『…お会いしたことが、ございます』

マーロウは、足を止めた。

東の哨所で、お会いしたことが、ございましたか、と首を傾けた男だった。

「ああ。ある」

『一年前、湯を、桶に三杯、ご用意いたしました。…あなたは、袋と筒を、桶の下に隠されました』

「見てたんだったな」

『見ておりました。何も、するなと言われておりませんでしたので』

アディは、声を出して、笑った。

短い、下手な笑い声だった。

ハンナ・ノールが、その横顔を、じっと見ていた。


最後に、ロズリンが、マーロウの前に来た。

帳面を、胸に抱いていた。二百八十九人ぶんの名前が、全部書かれた帳面。

『マーロウさん』

「なんだ」

『ウィラさんに、よろしく伝えてください』

ロズリンは、帳面の、古い頁を開いた。去年の冬に使っていた頁。ドラグへの短い返事の下に、別の字で、一行。

待ってます。ウィラ・ケイン。

『待ってます、と書いた人に。…今度は、あなたが、待たせないでください』

マーロウは、その字を、長いこと見ていた。

「…分かった」


ミラベルが、マーロウの前に、背中を向けてしゃがんだ。

『はい、坊や。乗って』

「…おぶされって言うのか」

『だって、坊やの足だと、掘削地まで半月だよ。あたしなら、二日』

マーロウは、しばらく黙っていた。

列の中で、ネルが吹き出した。ドラグが、横を向いて咳払いをした。ロズリンが、帳面で顔を隠した。

マーロウは、ミラベルの背中に乗った。

『…あは。坊やを背負うの、初めて』

「黙って走れ」

『やだ。しゃべりながら走る』

ミラベルは、立ち上がった。ミラが、その横に並んだ。

列が、ゆっくり動きだした。先頭に、ドラグ。帳面を抱えたロズリン。荷台のオーウェンと、その手を握ったネル。母親と並ぶアディ。二百八十九人の、名前のある列。

ミラベルは、その横を、風のように抜けていった。

ロズリンが、一度だけ、振り返った。ドラグは、振り返らなかった。代わりに、片手を、高く上げた。


二日後の昼、三人は、掘削地に着いた。

六十メートル近い鉄の塔。小屋が八棟。一年前と、同じ場所だった。

マーロウは、ミラベルの背中から降りて、塔の根元の、四角い穴の前に立った。

一年前、ここから籠に乗って、三千八百メートル下へ降りた。底に、一がいた。九年、ひとりで、海の水を粒にしながら、待っていた。

「…戻ってきたぞ」

誰にともなく、言った。

ミラが、横に来て、穴の縁から、下を覗きこんだ。暗かった。どこまでも、暗かった。

『…一、ここに、いた?』

「九年いた」

『ひとりで』

「ひとりでな」

ミラは、長いこと、穴を見ていた。一が最後に見てろと言ったのは、ミラだった。荒れ地の岩のあいだで、最後まで。

『…一、待つの、慣れてたって、言った』

「言ってたな」

『マーロウは、待たせないで』

マーロウは、ミラの頭に、手を置いた。

「ああ。待たせない」

ミラベルが、マーロウの手を取った。赤い紐どうしが、触れた。

『…行こ』

「ああ」

三人は、西へ歩きだした。

第三十二章 了