第三十章
うちの娘

三日目の昼、白い道の西の果てに、荷車が一台、見えた。
馬が二頭。御者台に、灰色の服の若い男。
アディ・ノールの荷車だった。
荷車は、列の手前で止まった。荷台から、三つの影が、ほとんど同時に飛び降りた。
最初に走ってきたのは、ネルだった。
列の先頭のミラベルの横を、すり抜けた。マーロウの横を、すり抜けた。四人の男が運んでいる、木の板の上だけを見て。
板の上で、オーウェン・グリムが、浅い息をしていた。
ネルは、板の横に、膝から崩れた。
「…親父」
オーウェンの目が、一拍、止まった。
濁った目が、ゆっくり、ネルのほうへ動いた。
長いこと、ネルの顔を見ていた。
『…ネル』
かすれた声だった。
『…うちの、娘』
ネルの顔が、くしゃくしゃになった。
「そうだよ。…あんたの娘だよ。二十六年、一回も、拾った子って言わなかった、あんたの」
ネルは、オーウェンの節くれだった手を、両手で握った。
「迎えに来た。…ちびも、待ってる。あんたの孫だよ。木の脚の。帰ったら、会わせる」
オーウェンの指が、ネルの指の中で、ほんの少しだけ、握り返した。
アディは、御者台から降りて、列の横を、ゆっくり歩いていた。
灰色の服の人たちの顔を、一つずつ、見ていた。
列の中ほどで、アディの足が止まった。
五十くらいの、人間の女だった。痩せていて、手の甲に、古い火傷の痕が、いくつもあった。パンの窯で、何度も焼いた痕だった。
アディの口が、開いた。
丁寧な言葉は、出てこなかった。
「…母さん」
女の目が、一拍、止まった。
『…アディ』
平らな声だった。
それでも、その名前は、女の口から、まっすぐ出てきた。
アディの頬を、何かが、伝った。
アディは、それが何か分からないという顔で、自分の頬に触った。濡れた指を、見下ろした。
それから、女の火傷だらけの手を、取った。
「母さん。…パンを、焼きました。母さんのやり方で」
ハンナ・ノールは、息子の顔を、ずっと見ていた。
ロズリンは、帳面を抱えて、列の前に立ち尽くしていた。
二百八十九人。一人も、名前を書いていない列。
マーロウが、その横に来た。
「書け」
『…名前が、分かりません。聞いて回るには、何日も』
「おれが言う」
マーロウは、列の先頭から、順に、名前を言いはじめた。
「マティアス・フェンウィック。クララ・ストラウド。ヨナス・ブラックウッド。ベルタ・ミルバーン」
ロズリンの筆が、動きはじめた。
十人。五十人。百人。
マーロウは、一度も、詰まらなかった。
二百八十九人目を言い終えたとき、ロズリンは、筆を止めて、マーロウを見上げた。
『…全部、覚えたのですか』
「書くやつが、いなかったからな」
ロズリンの眼鏡の奥が、光った。
ドラグが、ロズリンの後ろから、帳面を覗きこんでいた。
「…二百八十九人ぶん、名前の欄が、埋まったな」
『はい』
ロズリンは、いちばん上に、一行、書き足した。
帝国暦三四九年、春。孤独の大地より、十二の家の者、二百八十九名。名前、全部あり。
その夜、白い道の脇に、火を焚いた。
ミラベルは、マーロウの肩にもたれて、火を見ていた。
『坊や、名前、全部覚えたんだ』
「覚えた」
『あたしのは、覚えてる?』
「忘れるか」
ミラベルは、にやにやした。
『じゃあ、言って』
「…ミラベル」
『もう一回』
「ミラベル」
『名字も』
マーロウは、少し黙った。
「…ミラベル・グリム。そのうち、別の名字も、考えとく」
ミラベルは、動かなくなった。
それから、マーロウの腕に顔を押しつけて、足をばたばたさせた。
火の向こうで、ネルが、オーウェンの手を握ったまま、それを見て笑っていた。
第三十章 了