第二十二章
冷えていく

一滴もない朝は、胸の奥が、あったかくなかった。
ミラベルは、ヒルデの鍛冶場の裏で、自分の胸に手を当てていた。
冷たいわけではなかった。ただ、いつもの、ことりと鳴ったあとの温かさが、なかった。
『…どうした』とネルが訊いた。
「なんでもない」
ミラベルは、笑った。
「東に行く。坊やを、迎えに行く」
『あたしも行く。親父がいる』
ピップは、とミラベルが訊いた。
ネルは、振り返った。
ピップが、鍛冶場の戸口に立っていた。新しい白い脚で。ヒルデの前掛けを、今度は、つかんでいなかった。
「行ってきなよ、かあちゃん」
ピップが、言った。
「じいちゃん、連れて帰ってきて。…今度は、おれ、泣かないで待ってる」
ネルは、ピップの前にしゃがんだ。
古いほうの脚を、布にくるんで、ピップの手に持たせた。帝国の伝令が放り投げていった、あの脚だった。
『これ、預けとく。帰ったら、返してもらう』
「なんで」
『あたしが帰ってくるって、約束の代わりだ』
ピップは、古い脚を、両腕で抱きしめた。
ミラベルは、ネルを背負って、東へ走った。
一日目は、いつもどおりだった。馬を置いていく速さで、赤い土の上を走った。
二日目の朝、ミラベルは、自分の足音に気づいた。
いつもは、足が地面に着く前に、次の足が出ていた。今日は、足音がした。一歩ずつ。
昼には、息が切れた。刃の体は、息を切らさない。ミラベルは、そう知っていた。知っていたのに、切れた。
夕方、ネルを背中から下ろして、ミラベルは、岩に手をついた。
『休め』
ネルが、水の袋を差し出した。ミラベルは、首を振った。
「水じゃ、だめなの。…坊やの一滴で、体の中の水を燃やしてる。一滴がないと、燃やせなくなってく。昔の、粒の頃みたいに。お腹が、すいてくの」
『…どれくらい、もつ』
「分かんない。…たぶん、三日。三日目で、止まる」
ネルの顔から、色が引いた。
ミラベルは、笑った。笑おうとした。
「大丈夫。あと一日あれば、哨所に着く。ロズリンに会える。…それから先は、そのとき考える」
三日目の昼、白い砂の上で、ミラベルの膝が、折れた。
ネルが、背中から転がり落ちた。
ミラベルは、起き上がろうとした。腕が、砂に沈んだまま、上がらなかった。唇が、白く乾いていた。茶色の目の光が、薄かった。
『ミラベル!』
「…ちょっと、待って。今、動く」
動かなかった。
ネルは、ミラベルの体を、背負おうとした。持ち上がらなかった。金属の腕と剣の重さで、ネルの膝が震えた。
『誰か…!』
ネルは、白い砂の上で、叫んだ。
誰もいなかった。風の音しか、しなかった。
ネルは、ミラベルの頭を、膝に抱えた。
『あんた、親戚だろ。…親戚が、こんなとこで止まるな』
ミラベルの唇が、少しだけ動いた。
「…坊や、今日も、いた…?」
東から、何かが走ってきた。
小さな影だった。白い砂を蹴って、まっすぐ。木の腕を、胸に抱えて。
ネルが、顔を上げた。
ミラだった。
ミラは、ミラベルの前で止まった。膝をついた。息を切らしていなかった。刃の体は、息を切らさない。
木の腕の中から、硝子の管を一本、出した。木の指で、栓を抜いた。
ミラベルの割れた唇に、管の口を当てた。
赤いものが、流れこんだ。三滴。
長いこと、何も起きなかった。
それから、ミラベルの胸の奥で、小さな音がした。
ことり。
ミラベルの目が、開いた。
自分の顔を覗きこんでいる、自分と同じ顔を、見た。
「…ミラ」
『ミラが、持ってきた』
ミラは、もう一本の管を、ミラベルの手に握らせた。
『マーロウの。舌、噛んだ。…痛くない、って顔してた』
ミラベルの目から、涙があふれた。
起き上がって、ミラを、両腕で抱きしめた。金属の腕も、そうでないほうの腕も。
「ミラ…ミラぁ…」
『…見てた。見てるのが、仕事。…でも、今日は、走った』
「かっこよかった。姉ちゃんより、ずっと」
ミラは、ミラベルの腕の中で、木の腕を、ぎこちなく、ミラベルの背中に回した。
ネルが、その二人を見て、砂の上に座りこんで、声を出して笑った。泣きながら。
第二十二章 了