海壁

第八章

全員にございます

挿絵:全員にございます

夜、店の作業台の上に、硝子の板が置かれた。

まわりに、全員が集まっていた。マーロウ、ミラベル、ミラ、ドラグ。ネルは、板のいちばん近くに座っていた。ピップは、ネルの膝を枕にして、目を開けていた。

ロズリンが、指で字を書いた。

オーウェン・グリムは、生きていますか。

待つ時間は、なかった。

白い字が、すぐに浮かんだ。

生きています。孤独の大地にいます。

ネルの喉が、鳴った。

両手で、口を押さえた。押さえた手の隙間から、息が漏れた。泣いているのか、笑っているのか、ネル自身にも分からない顔だった。

ピップが、起き上がって、ネルの袖をつかんだ。

「かあちゃん。じいちゃん、生きてるって」

『…うん』

「会える?」

『…会う。会うよ』


ロズリンは、筆を持つ手を、一度握り直した。

それから、次の問いを書いた。

本部行きの者は、どこにいますか。

字は、また、すぐに浮かんだ。

生きている者は、全員、孤独の大地にいます。変わったまま、働いています。

名字は、消していません。消す理由が、ないからです。

作業台のまわりが、しんとした。

マーロウは、板の字を見ていた。

埃のない床。湯が桶に三杯。寸法ぴったりの服。誰も笑わない、清潔な人たち。

案内役の若い男。

「…全員にございます」

マーロウは、呟いた。

「アディ・ノールが、そう言った。あそこの連中には、全員、名字があると。誰がつけたか訊いたら、ついておりましたので、と」

ロズリンが、帳面の端を見た。四日前の夜、赤い砂の上で、小さく書いておいた字。ノール。

『全員が、本部行きの人だとは、限りません』

ロズリンは、慎重に言った。

『でも、ノールは、十一の名字の一つです』

「十二の家は、あそこにいるんだな」

マーロウは、言った。

「孤独の大地に。本部が待ってる場所に」

誰も、否定しなかった。


ロズリンは、しばらく筆を止めていた。

ネルが、それを見て、小さく頷いた。訊け、という顔だった。

ロズリンは、書いた。

ネル・グリムは、オーガスト・グリムの子孫ですか。

いいえ。

ネルは、目を閉じた。分かっていた、という顔で。

ロズリンの筆が、少し速くなった。

では、なぜ、ネル・グリムを指定したのですか。

今度も、すぐだった。

あなたがたがハルデンに着く前に、彼女を孤独の大地へ運べば、あなたがたが孤独の大地へ来る見込みが、上がるからです。

ミラベルが、立ち上がった。椅子が倒れた。

『…ネルを、餌にしたの?』

ドラグが、低く言った。

「餌か」

『餌です』

ロズリンは、板から目を離さなかった。

『隊長。気づきましたか。本部は、十二の家がそろえば止まるかと訊いたら、答えませんでした。答えると、私たちが家を探すから。…でも、今夜の問いには、全部、すぐに答えました』

「孤独の大地へ行く話だからか」

『はい。本部は、答えたくないことには答えません。答えたいことには、すぐ答えます。嘘は、一つもついていません』

ロズリンは、帳面を閉じた。

『これも、道です。本部が作った道です』


ミラベルが、マーロウの前に来た。

倒れた椅子を、跨いで。

『坊や。行かないって、言ったよね』

「言った」

『本部が待ってる場所には、行かないって。本部が作った道は、もう歩かないって』

「言った」

マーロウは、ミラベルの顔を見ていた。

ミラベルの手が、マーロウの袖をつかんでいた。震えていた。

ネルが、ピップを膝から下ろして、立ち上がった。

『あたしは、行く』

全員が、ネルを見た。

『親父を、迎えに行く。あんたらが行かなくても、行く。道なんか、どうでもいい。親父がいる場所に行くだけだ』

「おれも」とピップが言った。

『あんたは、留守番だ』

「やだ」

『やだじゃない』

ピップは、ネルの腰に、しがみついた。


そのとき、板が、もう一度光った。

誰も、何も書いていなかった。

白い字が、浮かんだ。

お伝えします。

オーウェン・グリムの熱が、四日前から、下がりません。

ネルの顔から、血の気が引いた。

ドラグが、唸った。

「…これも、餌だ」

『餌です』

ロズリンは、静かに言った。

『でも、たぶん、本当です。本部は、嘘をつきません』


マーロウは、店の外へ出た。

谷の上に、白い壁が見えた。今は、灯りが一つも点いていなかった。

ミラベルが、後ろから出てきた。何も言わずに、マーロウの横に立った。左手を、差し出した。

マーロウは、その手を取った。四本の指が、まっすぐ、マーロウの指に絡んだ。赤い紐が、触れた。

『…こわい』

「おれもだ」

『坊やが、あそこに行ったら。あの建物に入ったら。…二度と、出てこない気がする』

マーロウは、東の暗い空を見ていた。

孤独の大地のある方角だった。

「一つだけ、決めてる」

『何』

「どこへ行くにしても、おまえの手を放して行くことはしない」

ミラベルは、マーロウの肩に、額を押しつけた。

長いこと、そのままでいた。

『…今日も、いた』

「今日も、いた」

三年のうちの、八日目の夜だった。

第八章 了