海壁

第十章

鳴き霧

挿絵:鳴き霧

音が、近づいてきた。

地面すれすれを、灰色の雲が這ってきた。高さは、人の背の三倍ほど。幅は、荷車を二十台並べたくらい。

雲ではなかった。

虫だった。親指ほどの大きさの虫が、何千、何万と集まって、一つの塊になって飛んでいた。羽が、硝子のように透けていた。その羽が、いっせいに震えて、低い音を出していた。

音が、荷車まで届いた。

マーロウの唇が、ぴり、と裂けた。

目が、乾いた。瞬きをしても、乾いたままだった。手の甲の皮膚が、見ているうちに白くひび割れていった。

馬が、苦しそうに息を吐いた。

その息が、白い筋になった。筋は、地面に落ちずに、まっすぐ雲のほうへ流れていった。馬の目から。鼻から。濡れた口から。細い霧の糸が、何本も、雲に吸い込まれていった。

「…水を、抜かれてる」

牛が干からびた理由が、分かった。


ミラベルが、走った。

剣を振った。刃を伸ばした。一振りで、何十匹もの虫が落ちた。

落ちたぶんだけ、雲が、すぐに埋まった。

「減らない!」

ミラベルは、振り続けた。剣の速さで、風が起きた。雲が、一度だけ、大きくちぎれて散った。

散った虫は、息を三つするあいだに、また一つに集まった。斬っても、叩いても、吹き散らしても、雲の形は戻った。剣が、空を切っているのと同じだった。

どれほど強くても、切るものがなければ、何も切れない。

「斬る場所が、ない!」

ドラグが、ロズリンに外套をかぶせて、その上から覆いかぶさっていた。ドラグの唇も、裂けて血がにじんでいた。

ロズリンが、外套の隙間から叫んだ。

『マーロウさん! あの霧は、馬の体から出た水です!』

マーロウが、振り向いた。

『生き物を通った水です! むき出しの!』

マーロウの頭の中で、何かが噛み合った。

むき出しの水に、この血が触れると。桶一杯ぶんまで。粒が、一つ。噛む兵の口の唾と、同じだ。

触らなくても、飛ばせば届く。

マーロウは、腰の鉤を抜いた。

左の手のひらに、刃先を当てた。

『坊や、切りすぎないで!』

ミラベルの声が、雲の向こうから飛んできた。

マーロウは、浅く一本だけ、引いた。

血が、ふくらんだ。

マーロウは、手を振った。馬から雲へ流れる、霧の糸に向かって。

赤い点が、いくつも飛んだ。

霧の糸に、触れた。

糸が、そこで、ぷつりと消えた。

代わりに、小さな粒が、ぱらぱらと地面に落ちた。


一振りで、糸が五本、消えた。

もう一振り。七本。

馬の息が、白い筋にならなくなった。

雲の音が、変わった。低い唸りが、甲高い声になった。飢えた声だった。

雲が、向きを変えた。

マーロウのほうへ。

いちばん濡れた匂いのする、新しい血のほうへ。

マーロウは、逃げなかった。一本目の線は、もう塞がりかけていた。二本目を切った。鉤に、手のひらの血を塗りつけた。

雲が、マーロウを包んだ。

羽の音で、何も聞こえなくなった。顔じゅうの皮膚が、一度に乾いた。

マーロウは、鉤を振った。

血のついた鉄が、虫の群れを横切った。触れた虫が、一匹残らず、しぼんで落ちた。虫の体は、盗んだ水でふくらんでいた。むき出しの水と、同じだった。

落ちた虫の横に、粒が一つずつ転がった。

それでも、雲は、減らなかった。

「…多すぎる」

マーロウは、三本目を切った。痛くないから、深く切れた。


『真ん中』

ミラの声だった。

ミラは、荷台の上に立っていた。金属の目が、雲の奥を見ていた。

『真ん中に、一匹だけ、大きいの。羽が、鳴ってない。お腹が、白く光ってる。…ほどけかけの、粒』

マーロウには、見えなかった。灰色の渦しか見えなかった。

「どこだ」

『そこ。マーロウの、頭の上。三メートル』

ミラが、荷台を蹴った。

腕のない体の頃には、できなかった跳び方だった。ミラは、雲の中へ飛び込んで、焦げ跡の残る木の腕を伸ばした。

木の指が、閉じた。

握りこぶしほどの、黒い塊をつかんでいた。濡れた腹の皮の下で、古い粒が一つ、白く光っていた。まわりの何万の羽は、その光の力で鳴っていたのだ、とマーロウは思った。

木には、盗む水がなかった。塊が、ミラの木の手の中で、もがいた。

ミラは、それを、マーロウの前に突き出した。

『これ』

マーロウは、血の出ている手のひらを、塊の濡れた腹に押しつけた。

腹の光が、消えた。塊が、しぼんだ。

米の半分ほどの粒が、一つ、ミラの木の手のひらに残った。

雲が、ほどけた。

何万の虫が、いっせいに、方向を失った。ばらばらに散って、地面に落ちて、動かなくなった。

音が、止んだ。


夜、ロズリンが、地面の粒を拾い集めて数えた。

三百九十一。

一の粒とは、別の袋に入れた。

ミラベルは、マーロウの左手を、膝の上で開かせていた。

『三本』

「…なにが」

『切ったの。三本。約束は?』

「二本にするつもりだった」

『つもりじゃ、だめ』

ミラベルは、塞がりかけた傷を、指でなぞった。それから、手のひらに、自分の頬を押しつけた。

『…かっこよかったけど』

「どっちだ」

『両方。かっこよくて、やだった』

ミラベルは、顔を上げた。

『名前、つけていい? さっきの。坊やの血の雨』

「好きにしろ」

『坊やの雨』

「短くなってるぞ」

『いいの。呼びやすいでしょ』

ネルが、火のそばで、マーロウの鉤を膝に載せていた。灯りにかざして、刃の腹を指でなぞっていた。

「…血が、すぐ流れ落ちる」

ネルは、呟いた。

「溝を切れば、残る。一日くれ」

ミラが、木の手のひらの粒を、ずっと見ていた。

『…ミラが、見つけた』

「おまえが見つけた」とマーロウが言った。

ミラは、それを、口の中で転がすように、もう一度言った。

東の空の、いちばん低いところに、灰色の染みが一つ、浮かんでいた。

哨所のある方角だった。

第十章 了