海壁
第五巻の終わり 人物相関図
第五巻の終わり 人物相関図

第一章

光を吐く獣

挿絵:光を吐く獣

白い線が、砂の上を走った。

荷車の後ろ、十メートル。線が通ったあとの砂が、赤から黒へ、黒から透きとおった色へ変わった。溶けて、固まって、硝子になっていた。湯気が上がった。

二頭の馬が、泣くような声を上げた。

「伏せろ!」

砂が、盛り上がった。

家の屋根ほどの高さに膨らんで、割れた。中から、丸い口が出てきた。差し渡しが三メートル。内側に、白い歯が輪になって何重にも並んでいた。目は、どこにもなかった。

錆の色をした板が、瓦のように重なった体。砂の上に出ているだけで十メートル。後ろの盛り上がりまで入れれば、荷車を十台並べたくらいある。

口の奥が、白く光っていた。


二本目の線が来た。

ミラベルが、荷車の横腹を蹴った。荷車が、馬ごと横へ滑った。線は、さっきまで荷車があった場所を焼いて、硝子の筋を二十メートル引いた。

ドラグが、荷台から落ちかけたロズリンの襟をつかんで、引き戻した。

「…ほどきだ」

ドラグが、唸った。

「オークの婆さんらの昔話だ。大昔の人間は、粒を割って、光を撃った。人間は、それを魔法と呼んどった。…作り話だと思っとった」

『粒は、使うほど、使わなくても、ゆるみます』

ロズリンが、帳面を抱えたまま言った。

『ゆるんだぶんの漏れが、灯りになります。一度に全部ほどけば、壁の灯り千個で二千八百年ぶん。…それを、少しずつ、吐いています』

荷台の上に、ミラが立っていた。腕のない体で、倒れかけた荷車の縁に、足だけで乗っていた。金属の目が、獣の口の奥を見ていた。

『喉の奥。粒が、たくさん。光ってる。…濡れてる』

「濡れてる?」

『喉の肉が、濡れてる。粒が、そこに、くっついてる』

ミラベルが、剣を肩に担いで、鼻で笑った。

「あんなの、首ごと落とせるよ。ひと振りで」

『だめです!』

ロズリンが、叫んだ。

『喉を割ったら、濡れた粒が、いっぺんにほどけるかもしれません。一粒全部ほどけるだけで、壁の灯り千個の、二千八百年ぶんです。…ここにいる全員ごと、消えます』

ミラベルの笑いが、止まった。

マーロウは、獣を見た。錆の色の板。その継ぎ目。

畑で、一が、大きな鐘鳴きの殻の継ぎ目の肉に、噛み切った手のひらを押しつけていた。一回で、桶一杯ぶん萎ませていた。

あのときの手を、覚えていた。


「ミラベル! 首を押さえて、板だけ剥がせるか! 喉は割るな!」

『任せて!』

ミラベルが、走った。

前は、数えていた。刃を一回伸ばすたびに、粒が、あといくつ。作られた日から、ずっとそうだった。今は、朝の一滴が、胸の奥で、あったかいままだった。

数えなくていい脚は、速かった。

三本目の線が、ミラベルを追った。追いつかなかった。四本目も、五本目も。ミラベルは、線と線のあいだを、散歩でもするように抜けて、獣の首に跳び乗った。刃を、腕の三倍まで伸ばした。板の継ぎ目に沿って、振り抜いた。

板が三枚、はじけ飛んだ。

下から、赤い肉が見えた。濡れて、光っていた。

ミラベルは、左手一本で、獣の首の板をつかんだ。そのまま、砂に押さえつけた。

三十メートルの体が、尾の先まで跳ねた。砂が、波のように盛り上がった。

首は、一センチも浮かなかった。

『今!』

マーロウは、腰の鉤で、左の手のひらを一本だけ切った。

走った。

獣の首に、手のひらを押しつけた。

濡れた肉が、手の下で、しぼんだ。桶一杯ぶん。粒が一つ、ころりと砂に落ちた。

もう一度、押しつけた。

口の奥の白い光が、ちらついた。

光が弱くなった、とミラが叫んだ。

『濡れていないと、ほどけないのかもしれません!』

ロズリンが、荷車の陰から叫んだ。

三度目。四度目。

喉の奥の光が、消えた。

獣は、長いこと震えて、それから動かなくなった。

開いたままの口から、黒ずんだ粒が、ざらざらとこぼれ出た。刻印のない、古い粒だった。砂の下の、昔の街の瓦礫から、食べてきたのだろう。マーロウは、そう思った。


ミラベルが、剣を抜いて、マーロウに駆け寄ってきた。

まず、マーロウの左手を開かせた。

『一本だけ?』

「一本だけだ」

『…よし』

それから、顔じゅうで笑った。

『見た? あたし、一回も数えなかった! 坊やも、見た! 一さんの手!』

「見よう見まねだ」

『かっこよかった』

ミラベルは、目を閉じて、顔を上げた。唇を、少しだけとがらせて。

「砂まみれだ」

『いいの』

マーロウは、ミラベルの額に口をつけた。

『…おでこ?』

「口は、洗ってからだ」

ドラグが、咳払いをした。ロズリンの襟を、まだつかんでいた。


夜、ロズリンが、火のそばで帳面を開いた。

『明日から、帝国の土地です。十一人の名前を、読みます。どこでその名字を聞くか、分かりませんから』

ロズリンは、エリス・ケインの名前の下を、指でなぞった。

『シグルド・ノール』

「…ノール」

マーロウが、顔を上げた。

「孤独の大地で、おれの案内をしたやつが、アディ・ノールだった。名字があるのかと訊いたら、ついておりましたので、と言った」

『名字が同じだけかもしれません。…書いておきます』

ロズリンは、続けた。

『ヘレナ・クロスリー。ルドルフ・ハーグレイヴ。コンスタンツェ・ミルバーン。イーディス・ローウェル。ギデオン・ストラウド。…オーガスト・グリム』

ミラベルの手から、椀が落ちた。

豆が、砂にこぼれた。

「…それ、爺さんの、名字」

第一章 了