
第一章
光を吐く獣

白い線が、砂の上を走った。
荷車の後ろ、十メートル。線が通ったあとの砂が、赤から黒へ、黒から透きとおった色へ変わった。溶けて、固まって、硝子になっていた。湯気が上がった。
二頭の馬が、泣くような声を上げた。
「伏せろ!」
砂が、盛り上がった。
家の屋根ほどの高さに膨らんで、割れた。中から、丸い口が出てきた。差し渡しが三メートル。内側に、白い歯が輪になって何重にも並んでいた。目は、どこにもなかった。
錆の色をした板が、瓦のように重なった体。砂の上に出ているだけで十メートル。後ろの盛り上がりまで入れれば、荷車を十台並べたくらいある。
口の奥が、白く光っていた。
二本目の線が来た。
ミラベルが、荷車の横腹を蹴った。荷車が、馬ごと横へ滑った。線は、さっきまで荷車があった場所を焼いて、硝子の筋を二十メートル引いた。
ドラグが、荷台から落ちかけたロズリンの襟をつかんで、引き戻した。
「…ほどきだ」
ドラグが、唸った。
「オークの婆さんらの昔話だ。大昔の人間は、粒を割って、光を撃った。人間は、それを魔法と呼んどった。…作り話だと思っとった」
『粒は、使うほど、使わなくても、ゆるみます』
ロズリンが、帳面を抱えたまま言った。
『ゆるんだぶんの漏れが、灯りになります。一度に全部ほどけば、壁の灯り千個で二千八百年ぶん。…それを、少しずつ、吐いています』
荷台の上に、ミラが立っていた。腕のない体で、倒れかけた荷車の縁に、足だけで乗っていた。金属の目が、獣の口の奥を見ていた。
『喉の奥。粒が、たくさん。光ってる。…濡れてる』
「濡れてる?」
『喉の肉が、濡れてる。粒が、そこに、くっついてる』
ミラベルが、剣を肩に担いで、鼻で笑った。
「あんなの、首ごと落とせるよ。ひと振りで」
『だめです!』
ロズリンが、叫んだ。
『喉を割ったら、濡れた粒が、いっぺんにほどけるかもしれません。一粒全部ほどけるだけで、壁の灯り千個の、二千八百年ぶんです。…ここにいる全員ごと、消えます』
ミラベルの笑いが、止まった。
マーロウは、獣を見た。錆の色の板。その継ぎ目。
畑で、一が、大きな鐘鳴きの殻の継ぎ目の肉に、噛み切った手のひらを押しつけていた。一回で、桶一杯ぶん萎ませていた。
あのときの手を、覚えていた。
「ミラベル! 首を押さえて、板だけ剥がせるか! 喉は割るな!」
『任せて!』
ミラベルが、走った。
前は、数えていた。刃を一回伸ばすたびに、粒が、あといくつ。作られた日から、ずっとそうだった。今は、朝の一滴が、胸の奥で、あったかいままだった。
数えなくていい脚は、速かった。
三本目の線が、ミラベルを追った。追いつかなかった。四本目も、五本目も。ミラベルは、線と線のあいだを、散歩でもするように抜けて、獣の首に跳び乗った。刃を、腕の三倍まで伸ばした。板の継ぎ目に沿って、振り抜いた。
板が三枚、はじけ飛んだ。
下から、赤い肉が見えた。濡れて、光っていた。
ミラベルは、左手一本で、獣の首の板をつかんだ。そのまま、砂に押さえつけた。
三十メートルの体が、尾の先まで跳ねた。砂が、波のように盛り上がった。
首は、一センチも浮かなかった。
『今!』
マーロウは、腰の鉤で、左の手のひらを一本だけ切った。
走った。
獣の首に、手のひらを押しつけた。
濡れた肉が、手の下で、しぼんだ。桶一杯ぶん。粒が一つ、ころりと砂に落ちた。
もう一度、押しつけた。
口の奥の白い光が、ちらついた。
光が弱くなった、とミラが叫んだ。
『濡れていないと、ほどけないのかもしれません!』
ロズリンが、荷車の陰から叫んだ。
三度目。四度目。
喉の奥の光が、消えた。
獣は、長いこと震えて、それから動かなくなった。
開いたままの口から、黒ずんだ粒が、ざらざらとこぼれ出た。刻印のない、古い粒だった。砂の下の、昔の街の瓦礫から、食べてきたのだろう。マーロウは、そう思った。
ミラベルが、剣を抜いて、マーロウに駆け寄ってきた。
まず、マーロウの左手を開かせた。
『一本だけ?』
「一本だけだ」
『…よし』
それから、顔じゅうで笑った。
『見た? あたし、一回も数えなかった! 坊やも、見た! 一さんの手!』
「見よう見まねだ」
『かっこよかった』
ミラベルは、目を閉じて、顔を上げた。唇を、少しだけとがらせて。
「砂まみれだ」
『いいの』
マーロウは、ミラベルの額に口をつけた。
『…おでこ?』
「口は、洗ってからだ」
ドラグが、咳払いをした。ロズリンの襟を、まだつかんでいた。
夜、ロズリンが、火のそばで帳面を開いた。
『明日から、帝国の土地です。十一人の名前を、読みます。どこでその名字を聞くか、分かりませんから』
ロズリンは、エリス・ケインの名前の下を、指でなぞった。
『シグルド・ノール』
「…ノール」
マーロウが、顔を上げた。
「孤独の大地で、おれの案内をしたやつが、アディ・ノールだった。名字があるのかと訊いたら、ついておりましたので、と言った」
『名字が同じだけかもしれません。…書いておきます』
ロズリンは、続けた。
『ヘレナ・クロスリー。ルドルフ・ハーグレイヴ。コンスタンツェ・ミルバーン。イーディス・ローウェル。ギデオン・ストラウド。…オーガスト・グリム』
ミラベルの手から、椀が落ちた。
豆が、砂にこぼれた。
「…それ、爺さんの、名字」
第一章 了