第九章
留守番

朝、ネルの店の前に、荷車が一台、用意された。
馬が二頭。荷台に、ロズリンの帳面と、硝子の板と、名前のない剣。それから、ネルの道具箱が一つ増えていた。
「東の哨所まで行く」
昨夜、マーロウはそう決めた。
「孤独の大地の手前だ。入るかどうかは、手前で決める。本部の言うとおりの日に、言うとおりの道で行く気はない」
東の哨所には、ハーラン・ベッセルがいる。
一年前、坑の上の掘削地で、主任をしていた男だ。顔の左半分が火傷でつるりとしていて、眉がない。九年、「空」と書かれた紙に判を押し続け、マーロウが籠で下りるのを見送った。今は哨所で、跡の水を引いて麦を育てている。
孤独の大地に、いちばん近いところで暮らしている人間だった。
ピップは、ハルデンに残ることになった。
預かるのは、鍛冶屋のヤン・コワルと、その女房のヒルデだった。ヒルデは、兵の騒ぎのとき、店の前の通りでヤンの名を叫んで飛び出した、あのオークの女だ。
「うちは子どもがいない。火の番が一人増えるのは、ありがたい」
ヒルデは、太い腕を組んで言った。ヤンは、その横で、黙って頷いた。言葉は、まだ少ししか戻っていなかった。
ネルは、店の奥から、木の脚を一本持ってきた。
今の脚より、指一本ぶん長かった。
ネルは、ピップの前にしゃがんで、古い脚の革帯をほどいた。新しい脚を当てて、締めた。
『立ってみな』
ピップは、立った。二、三歩、歩いた。
「…ちょっと、高い」
『これから伸びるぶんだ。すぐ合う』
「かあちゃんが帰ってくるまでに?」
『帰ってくるまでに』
ピップは、ネルの顔を見た。唇を、ぎゅっと結んでいた。
「じいちゃん、連れて帰ってきて」
『連れて帰る』
「連れて帰ってこなかったら、おれ、自分で脚作る。かあちゃんのやり方、見てたから」
ネルは、笑おうとして、失敗した。
ピップを、骨が鳴るほど抱きしめた。
荷車が、谷の坂を上っていった。
ピップは、ヒルデの前掛けをつかんで、見送っていた。泣かなかった。泣かないように、ずっと手を振っていた。
坂の上で、ネルが振り返った。
ピップが、まだ手を振っていた。
『…あいつ、あたしより強いよ』
「おまえの子だからな」とマーロウが言った。
ネルは、答えずに前を向いた。鼻が、赤かった。
ミラが、木の腕を、ネルの肩にそっと置いた。
昼、荷車を止めて、火を焚いた。
マーロウは、自分の左の手のひらを見ていた。二日前の二本の線は、もう跡も残っていなかった。
「足りない」
『何が?』とミラベルが訊いた。
「おれの血は、触ったところにしか効かない。一人ずつだ。噛む兵は八人だった。あれが八十人なら、二本じゃ届かない」
『三本目は、なしだからね』
「分かってる。だから、切る数を増やさずに、届くところを増やしたい」
ミラベルは、少し考えて、剣の柄を膝に立てた。
『あたしも、ずっと、そうだった。粒が足りないから、一振りで何人倒すか、ずっと考えてた。…坊やも、同じこと考えてる』
「同じか」
『同じ。刃のやり方、教えたげる。振る角度とか、どこから入るかとか』
ミラベルは、にっと笑った。
『その代わり、痛くないからって、自分を切りすぎないこと。坊やが自分を切りすぎるの、あたし、見てるのやだもん』
「…約束だ」
『うん。約束』
ドラグが、火に枝をくべながら、低く言った。
「オークの婆さんらの昔話には、続きがある。昔、光を撃つ人間がいた。それを止める人間もいた。止めるほうは、手で触って、光を消したそうだ」
ロズリンが、筆を止めた。
『…作り話だと、思っていましたか』
「思っとった。昨日まではな」
ネルは、道具箱の横で、マーロウの腰の鉤を、じっと見ていた。刃の腹を。血が流れ落ちたあとの、何もない鉄の面を。職人の顔だった。
二日目の夕方、道の先に、荷車が止まっていた。
牛の荷車が三台。牛は、繋がれたまま倒れていた。
近づいて、マーロウは足を止めた。
牛が、干からびていた。
紙のように。皮が骨に張りつき、目のあったところが窪んでいた。昨日、今日の死に方ではなかった。それなのに、腐った匂いが、一つもしなかった。
御者台に、男が一人、座ったまま死んでいた。同じように、乾ききって。
水の樽は、割れていなかった。蓋を開けると、空だった。
ロズリンが、口もとを押さえた。
『水吸いでは、ありません。水吸いは、樽を割ります。…これは、中身だけが、なくなっています』
ドラグが、あたりの地面を見回した。足跡はなかった。獣の跡も、なかった。
「…何も、来とらん。来た跡がない」
東から、風が吹いてきた。
風の中に、かすかな音が混じっていた。
低い、唸るような音だった。遠くで、何千もの羽が、一度に震えているような。
ミラが、金属の目を細めた。
『…何か、いる。東。たくさん』
第九章 了