海壁

第十八章

一人で

挿絵:一人で

最初に立ち上がったのは、ミラベルだった。

名前のない剣を、荷車から引き抜いた。

「行く」

声が、低かった。いつもの笑い声の、かけらもなかった。

「ハルデンまで、あたしの足なら一日半。砦ごと、全部、終わらせてくる」

『待ってください』

ロズリンが、紙を握ったまま言った。

『一番がハルデンに近づけば、子は返らない。…向こうは、あなたが来ることを、分かっています。グレイ将軍が、帰ってそう書いたはずです。あなたの速さも、強さも』

「近づいたって分かる前に、終わらせる」

『分かる仕組みを、向こうが持っていたら。あなたが町に入った瞬間に、誰かが、ピップの首に手をかけていたら』

ミラベルの手が、剣の柄の上で、白くなった。

どれほど速くても、先に誰かの手が動いていたら、間に合わない。

ミラベルは、それを、知っていた。


マーロウは、ネルの前にしゃがんだ。

ネルは、木の脚を抱いたまま、動かなかった。

「おれが、馬車に乗る」

ネルが、顔を上げた。

『…だめだ。あんた、それ、罠だよ』

「分かってる」

マーロウは、立ち上がって、全員を見た。

「おれが乗れば、知らせが走る。知らせが着けば、ピップは返される。…はずだ。返されなかったら、そのときは」

マーロウは、ミラベルを見た。

「おまえが、ネルとハルデンへ行け。町の外で、知らせが着くのを待て。ピップが家に帰れば、それでいい。帰らなかったら、全部、終わらせろ」

『…坊やは』

「馬車に乗って、ゆっくり行く」

ドラグが、低く言った。

『一人では、行かせん。ミラとおれが、見えんところからついていく』

ミラが、囲いの石の上から、頷いた。見る、ずっと、とミラは言った。

ロズリンは、帳面を抱きしめて、自分は残る、と言った。板と、アディと、荷車がある。本部が何か言ったら、書いておく、と。


火のそばで、ドラグが、槍の代わりの鉄の棒を研いでいた。

ロズリンが、その横に立った。

『隊長。帳面の横に座っている、と言いました』

「言った」

『…明日から、横に、いないじゃないですか』

ドラグの手が、止まった。

ロズリンは、帳面から、白い頁を一枚、丁寧に切り取った。ドラグの大きな手に、握らせた。

『何があったか、ここに書いてきてください。字が汚くても、読みます』

「おれは、字が下手だ」

『知っています』

ドラグは、その紙を、四つに畳んで、胸の内側にしまった。

「帰ってきて、座る」

ロズリンは、何も言わずに頷いた。眼鏡の奥が、光っていた。


その夜、荷車の下で、ミラベルは、マーロウの胸に顔をうずめていた。

長いこと、何も言わなかった。

『…離れないって、言った』

「言った。すまん」

『あたしが遠くにいたら、全部は、出せない』

「出すな。帰ってこられなくなる」

『分かってる』

ミラベルは、マーロウの服を、握りしめた。

『ピップを連れて、すぐ行く。坊やがどこにいても。…迎えに行く』

マーロウは、ミラベルの髪を、指で梳いた。

「毎朝、数えろ」

『坊やがいない朝も?』

「おれがいない朝も。今日もいたって、数えろ。…おれも、数える」

ミラベルの肩が、震えた。

『…忘れないやつ、ちょうだい』

マーロウは、ミラベルの顔を上げさせた。

長い口づけだった。

離れてから、ミラベルは、泣きながら笑った。

『…しょっぱい』

「おまえが泣いてるからだ」

『坊やも、ちょっと泣いてる』

「泣いてない」

『うそ』

「うそだ」


夜のうちに、ネルが、指ほどの小さな硝子の管を三本、作っていた。口を、蝋で閉じられるようにしてあった。

マーロウは、その一本ずつに、指から血を一滴ずつ落とした。ネルが、すぐに蝋で閉じた。

乾く前なら効くかもしれない、とネルは言った。三日。それ以上は、分からない。

ミラベルは、一本を、その場で蝋を割って試した。

しばらくして、胸に手を当てた。

『…効く。ちょっと、薄いけど』

残りの二本が、ミラベルの帯の中にしまわれた。あさっての朝と、その次の朝のぶん。明日の朝は、坊やの指から、直に受ける。

ただ、二滴目の代わりにはならない、とミラベルは言った。深いところで何かがはまる、あの音は、坊やの指から直に受けないと、鳴らない。

ネルは、木の栓をつけた空の管を、もう二本、ミラの帯にも差しこんだ。向こうで、もし坊やの血がもらえたら、これに入れな、と言って。


翌朝、ミラベルは、マーロウの指から、朝の一滴を受けた。

それから、ネルの手を引いて、西へ走った。ネルを背負って。振り返らなかった。振り返ったら、止まってしまうと分かっていた。

砂煙が、一本、西へ伸びて、消えた。

マーロウは、一人で、哨所の西の道を歩いた。

一時間ほど歩いたところに、黒い馬車が止まっていた。馬が四頭。御者台に、灰色の軍服が二人。

馬車の戸が、内側から開いた。

女が、一人、座っていた。

人間だった。四十くらい。銀色の髪を、顎の線でまっすぐに切りそろえていた。薄い灰色の目。白い手袋。顔立ちは整っていて、何を考えているのか、少しも表に出ていなかった。

マーロウは、会って三秒で、この女を怖いと思った。

『皇帝の名代、セラフィナ・ロウです。一〇六番。お乗りなさい』

「子どもは」

『あなたが乗った知らせを、今、早馬に持たせました。明日の夜には、ハルデンに着きます。着けば、子どもは家に帰ります。約束は、守ります』

マーロウは、馬車に乗った。

戸が閉まった。

馬車が、動きだした。

セラフィナは、膝の上で、白い手袋の指を組んだ。

『あなたの血は、一番の餌だそうですね』

「…誰に聞いた」

『本部から、買いました』

セラフィナは、組んだ指をほどいて、革の手袋を一組、マーロウの膝に置いた。

『では、今日から、一滴も、外には出させません』

第十八章 了