第十九章
重さ

二日目の夕方、ミラベルは、ハルデンの谷の上の尾根に、伏せていた。
背中から下ろしたネルが、隣で息を殺していた。
谷の上の白い建物に、灯りがついていた。止めたはずの施療所だった。今は、帝国の旗が掛かっていた。
夜になって、早馬が一頭、坂を駆け上がっていった。
ミラベルの金属の目が、闇の中で、白い建物の戸口を見ていた。
「…出てきた」
戸口から、兵が二人、小さな影を連れて出てきた。
小さな影は、片足を引きずっていた。木の脚が、なかった。
ネルが、息を呑んだ。
兵は、影を坂の下まで連れていって、鍛冶場の前で手を放した。影は、一度だけ振り返って、それから、鍛冶場の戸を叩いた。
戸が開いた。オークの女が、影を抱き上げた。ヒルデだった。
ネルの肩から、力が抜けた。
『…返した。本当に、返した』
「約束は、守るって言ってた」
ミラベルは、尾根に伏せたまま、谷を見ていた。
笑わなかった。
「でも、変」
『何が』
「返したなら、もう、あたしたちに用はないはず。…なのに、兵が、帰らない」
白い建物のまわりに、灯りが増えていた。十。二十。坂の上から、谷の下まで、ぐるりと輪になって。
輪の真ん中は、鍛冶場だった。
夜明け前、ミラベルは、帯から硝子の管を一本出して、蝋を割って、飲んだ。最後の一本だった。
それから、ネルを連れて坂を下りた。
隠れなかった。子どもは、もう家にいる。近づいても、返らない子どもは、もういない。
鍛冶場の前に、ピップがいた。片足で、ヒルデの前掛けにつかまっていた。
「…かあちゃん!」
ネルが、走った。
その瞬間、ネルが、地面に叩きつけられた。
転んだのではなかった。上から、見えない手で押さえつけられたように。ヒルデが、ピップを抱いたまま、膝をついた。鍛冶場の屋根の鉄の板が、音を立ててへこんだ。
ミラベルの足が、踝まで、土に沈んだ。
重かった。
自分の体が、十倍になったように、重かった。
通りの両側の屋根の上に、兵が立っていた。
十人。灰色の軍服に、胸に銅の丸い錘を下げていた。錘の中で、白い光が、脈を打っていた。
兵の一人が、屋根の上から言った。
『一〇六番は、遠い。…一番。今のおまえは、全部を出せない。そう、聞いている』
ミラベルは、答えなかった。
錘の光が、強くなった。
二十倍。三十倍。
ネルが、地面で、息ができずにもがいた。ピップが、ヒルデの腕の中で泣いていた。ヒルデの太い腕が、震えていた。
ミラベルは、膝まで、土に沈んでいた。
「…ほどいた重さ、か」
ミラベルは、呟いた。
「粒を濡らして、ほどいて、光じゃなくて、重さにしてる」
ミラベルは、一歩、足を抜いた。
土が、裂けた。
もう一歩。
三十倍の重さの中を、ミラベルは、歩いた。走れなかった。ただ、歩いた。一歩ごとに、足もとの土が、割れた。
屋根の上の兵が、一歩、下がった。
『…なぜ、歩ける』
「坊やの一滴、持ってきたもん」
ミラベルは、鍛冶場の壁に手をかけた。三十倍の重さの中で、壁を、跳ぶように登った。
屋根の上の兵の、胸の錘をつかんだ。錘の裏に、細い硝子の管が一本。
「管、ちょうだい」
引き抜いた。
重さが、一つ、消えた。
十個の錘は、十の屋根の上にあった。
一つ消えるたびに、ミラベルは速くなった。
二つ目。三つ目の兵は、屋根から逃げようとした。背中を向けた時には、もう、胸の管がなかった。
四つ目、五つ目。六つ目から先は、ネルには見えなかった。重さが消えて、息が戻って、顔を上げたときには、十人の兵が、屋根の上で、ぽかんと座りこんでいた。胸の錘は、全部、光を失っていた。
ミラベルは、谷の真ん中に立っていた。
名前のない剣は、背中に差したままだった。一度も、抜いていなかった。
兵の一人が、震える声で言った。
『…全部を、出していないのか。それで』
「出してないよ」
ミラベルは、言った。
「坊やが遠いから。…だから、あんたたち、生きてる」
ネルは、ピップを抱きしめていた。
ヒルデが、その二人を、まとめて太い腕で抱えていた。
ネルは、背中の袋から、白い木の脚を出した。ピップの足に当てた。革の帯を、締めた。
「…長い」
『これから伸びるぶんだ』
「かあちゃん、それ、前も言った」
『前も、そうだったろ』
ピップは、ネルの首にしがみついて、声を上げて泣いた。
ミラベルは、それを見て、東の空を見た。
坊やは、今、どこにいるだろう。
今日も、いた。ミラベルは、声に出さずに、数えた。
同じ朝。東の哨所で、硝子の板が、ひとりでに光った。
ロズリンが、それを読んで、帳面を落とした。
帝国から、一〇六番を、買いました。
馬車は、帝国へは向かっていません。東へ、向かっています。
孤独の大地で、待っています。
第十九章 了