第二十章
名代

馬車は、三日目の夕方になっても、止まらなかった。
窓の外の景色が、変わっていた。赤い土が、白っぽい砂に。砂が、ひび割れた固い地面に。北の道を回って、今は、日の昇るほうへ走っていた。
マーロウの両手には、革の手袋がはめられていた。手首のところで、細い鎖が留めてあった。自分では、外せなかった。腰の鉄の鉤は、馬車に乗るときに、御者の兵が取り上げていた。
「帝国へ行くんじゃないのか」
向かいの席で、セラフィナ・ロウが、膝の上で白い手袋の指を組んでいた。
『行きません』
「ハルデンの子は」
『返しました。約束は、守ります。…あなたを帝国に連れていくとは、一度も言っておりません』
マーロウは、窓の外を見た。東。孤独の大地のほう。
「本部に、売ったのか」
『売りました』
セラフィナは、少しも隠さなかった。
『本部は、一番の止め方を、帝国に売りました。帝国は、それを使って、あなたを本部に売ります。代わりに、本部は、西の海を粒にしたとき、その半分を帝国に渡します』
「西の海には、街がある」
『存じています。海壁の街。人は、数千』
「人の住む街の海を、半分もらう約束か」
『帝国には、二千万の民がいます』
セラフィナの声は、平らだった。
『その二千万が、灯りと、水と、動く機械で生きています。全部、粒で動いています。…数を比べれば、答えは出ます』
「本部と、同じことを言うんだな」
セラフィナは、少しだけ、首を傾けた。
『本部は、人を数に入れません。私は、入れています。入れたうえで、比べています』
「あんたの数には、誰が入ってる」
セラフィナは、窓の外を見た。
『帝都の、北の区に、娘が一人おります。九つです』
意外な答えだった。マーロウは、黙って続きを待った。
『暗いところが怖くて、灯りがないと眠れない子です。灯りは、粒で点いています。…二千万のうちの、一人です。私にとっては、いちばん重い一人です』
「海壁の街にも、灯りがないと眠れない子どもがいる」
『おりましょうね』
セラフィナは、少しも表情を変えなかった。
『ですから、比べるのです。比べずに済むなら、比べません』
マーロウは、しばらく黙っていた。
それから、下唇を、歯で噛んだ。
血が出れば。ひとしずくでも、窓の外に。
セラフィナの指が、動いた。
白い手袋の指先を、唇に当てた。舐めた。
指先が、白く光った。
光が、糸になった。髪の毛より細い、白い光の糸。それが、宙を走って、マーロウの顎に巻きついた。
口が、開かなくなった。噛もうとしても、歯が、動かなかった。
『手袋の指先に、古い粒を縫いこんであります』
セラフィナは、静かに言った。
『濡らせば、ほどける。ほどけたぶんを、糸にして、使います。…鉄も、切れます。人の顎くらいなら、閉じたままにしておけます』
糸が、ほどけた。顎が、自由になった。
『噛めば、また巻きます。血は、一滴も、外には出させません。本部に着くまで』
マーロウは、口の中の、自分の歯の感触を確かめた。
ほどきは、濡れていなければ使えない。あの女の指先が濡れているあいだだけ。
それだけ、覚えておいた。
夜、馬車が、はじめて止まった。
馬を休ませるためだった。御者の兵が二人、火を焚いた。セラフィナは、馬車の中で、目を閉じていた。眠っているのかどうか、分からなかった。
マーロウは、窓の外を見ていた。
ミラベルは、今朝、最後の管を飲んだはずだ。管は三本。一本はその場で試した。残りが二本。明日から、あいつには、一滴もない。
一滴もない朝が、何日続けば、あいつが止まるのか。マーロウは、知らなかった。ミラベルも、知らないはずだった。
今日も、いた。
マーロウは、声に出さずに数えた。遠くで、数えているはずの顔を、思い浮かべながら。
窓の外の、闇の中で、何かが光った。
低い岩の陰。地面すれすれの高さに、小さな白い光が、二つ。
金属の目だった。
ミラが、岩の陰に伏せて、こっちを見ていた。その少し後ろに、大きな影。ドラグだった。
ミラの木の手が、ゆっくり持ち上がった。
指のあいだに、細い硝子の管が一本、挟まっていた。
マーロウは、セラフィナを見た。目を閉じていた。
それから、もう一度、窓の外のミラを見た。
下唇を、噛まなかった。
舌の先を、奥歯で、強く噛んだ。
口の中に、血の味が広がった。
第二十章 了