海壁

第二章

本部行きの欄

挿絵:本部行きの欄

ロズリンは、帳面を閉じなかった。

こぼれた豆を見て、それから、ミラベルを見た。

『やはり、そう聞こえましたか』

「…知ってたの?」

『エリスさんが亡くなった夜に、聞きました。息のような声でした。聞き違いかもしれないと思って、確かめるつもりでした』

ロズリンは、眼鏡を外して、目もとを押さえた。

『次の朝に、畑の報せが来ました。一さんのことが。…言う時が、ありませんでした。ごめんなさい』

「謝んないで」

ミラベルは、膝を抱えた。

「爺さん、家族の話なんか、一回もしなかった。本部の中で、あたしの腕をつないで、目を入れて、名前をくれて。腕が片っぽなくて。毎朝、おはようミラベルって。…それしか知らない」

マーロウは、黙って豆を拾って、椀に戻した。


ロズリンは、帳面の後ろの頁をめくった。

『もう一つ、あります。畑を出る前に、ヒューゴの台帳から、本部行きの行だけを、全部写してきました』

帝国暦三二五年から、今年の春まで。二十六行。

『この二日、荷車の上で、十一の名字と一行ずつ比べました。合ったのは、六行です』

ロズリンは、指で数えた。

『ケインが一つ。リーネさんです。ハーグレイヴが二つ。ストラウドが一つ。…グリムが、二つ』

二十六行のうち、六行。四つに一つ近く。

ドラグが、低く唸った。

『偶然にしては、多すぎます』

ロズリンは、グリムの二行を、読み上げた。

帝国暦三三一年、冬。ハンス・グリム。ハルデン。本部行き。

帝国暦三四六年、秋。オーウェン・グリム。ハルデン。本部行き。家族、娘一名。在宅。

「ハルデンなら、知っとる」とドラグが言った。

「帝国の東の、掘り場の町だ。昔の街の瓦礫を掘って、鉄を拾う。ここから北へ、荷車で二日」

ミラベルが、顔を上げた。

「娘、一名。在宅」

ロズリンが、頷いた。

『三年前の秋に、家にいた人です。…今も、いるかもしれません』


マーロウは、火を見ていた。

「本部行きの名前は、本部が選ぶ。ヒューゴがそう言った」

『はい』

「本部は、十一人の名字を、覚えてる」

『たぶん』

ロズリンは、慎重に言った。

『本部は、十一人を粒にしました。三百年近く前に。…そのあとも、その名字の人を、年に一人か二人ずつ、選んで連れていっていたのかもしれません。十二人が、そろわないように』

ドラグの拳が、鳴った。

「家を、刈っとったのか」

誰も、すぐには答えなかった。

マーロウは、ケイン、という字を見ていた。帝国暦三四二年、夏。リーネ・ケイン。

母さんも、その一人だった。

ミラベルが、何も言わずに、マーロウの手を取った。赤い紐どうしが、触れた。


「訊いてみろ」とマーロウが言った。

ロズリンは、硝子の板を出した。指で、字を書いた。

十二人の家の子孫がそろえば、あなたは止まりますか。

板は、しばらく暗いままだった。

それから、白い字が浮かんだ。

その問いには、答えません。

答えると、あなたがたが十二の家を探す見込みが、上がります。

火のまわりが、静かになった。

「…答えないってことは」とミラベルが言った。

『答えないのが、答えです』

「それ、あたしが前に言ったやつ」

ロズリンは、少しだけ笑った。

それから、笑いが消えた。

『…今ので、本部は知りました。私たちが、家を探していると』

マーロウは、立ち上がった。

「夜のうちに発つ。夜も進んで、二日を一日半にする」


荷車に荷を戻しているあいだ、ミラベルは、ミラの横にしゃがんでいた。

「ミラ。あんたの名字の家、本当にあるんだって」

『グリム』

「そう。あたしが爺さんから勝手にもらって、あんたに分けた名字。その、本物の家」

ミラは、金属の目を瞬いた。

『…ミラの、家?』

「どうだろ。会ってみないと、分かんない」

ミラベルは、ミラの額に、自分の額をつけた。

それから、立ち上がって、御者台のマーロウの横に来た。

荷車が、暗い砂の上を動きだした。

しばらく、ミラベルは黙っていた。

『坊や。あたし、爺さんの家族に、どんな顔して会えばいいの』

「なんでだ」

『爺さんの腕、なくなったの、あたしを作ってたときだよ。機械に挟まれたって、嘘ついて。…あたしのせいで』

マーロウは、手綱を持ったまま、前を見ていた。

「名前もらいました、って顔で会え」

『どんな顔、それ』

「今の顔だ」

ミラベルは、自分の頬を両手で触った。

『…今、どんな顔してる?』

「泣きそうで、会いたそうな顔だ」

ミラベルは、マーロウの腕に、ぎゅっとしがみついた。

『好き』

「知ってる」

『もっと好き』

「…知ってる」

マーロウは、腕を振りほどかなかった。

「おまえが会いたいなら、会わせる。おれが決めた。それでいい」

荷車は、北へ進んだ。

ハルデンまで、あと一日半。本部の知らせがどれだけ速く届くのか、マーロウには、見当もつかなかった。

第二章 了