海壁

第十七章

木の脚

挿絵:木の脚

朝、哨所に、パンの焼ける匂いがした。

ハーランの小屋の裏に、土で固めた古い窯があった。その前に、アディ・ノールが立っていた。袖をまくって、灰を掻き出していた。

窯の口から、丸いパンが四つ、出てきた。

ハーランが、小屋の戸口で、それを見ていた。

「…頼んでいないぞ」

『窯が、ございましたので』

アディは、平らな声で言った。

『麦も、ございました。畑の、焼けて倒れたぶんを、挽きました』

ハーランは、眉のない顔で、長いことアディを見ていた。

それから、一つ、手に取った。割った。湯気が立った。

「…うまそうだ」


ネルが、パンを口に押しこんだまま、アディの横に座った。

「うまいじゃん。これ、どこのやり方」

『母の、やり方で、ございます』

アディは、窯の火を見ていた。

『ハンナ・ノールは、毎朝、日の出る前に窯に火を入れました。私は、薪を運びました。焼けたパンの端を、一つだけ、先にもらえました』

アディの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。

笑ったのかどうか、ネルには分からなかった。アディ自身にも、分からないようだった。

ロズリンが、少し離れたところで、帳面に書いていた。

帝国暦三四九年、春。アディ・ノール、頼まれずに、パンを焼く。


ミラベルは、囲いの石の上で、マーロウの指を取った。

鉤の先で、ほんの少しだけ突いた。赤い点を、唇で受けた。

『朝ごはん』

「昨日は、三滴やった」

『数えてるの?』

「数えるのは、癖だ」

ミラベルは、マーロウの指を、両手で包んだまま、放さなかった。

『痛くないって分かってても、坊やの指に穴あけるの、ほんとは、ちょっとやだ』

「一滴でおまえが動くなら、安い」

ミラベルは、耳まで赤くなって、マーロウの肩に頭をぶつけた。

『…そういうこと、朝から言わないで。止まる』

「止まらないんだろ。粒で動いてないんだから」

『もう!』


昼前、ハーランの小屋に、全員が集まった。

「次の荷車は、八日後だ」

マーロウが言った。

「荷車は、待てる。オーウェンの熱は、待たない」

ネルが、顔を上げた。

「孤独の大地へ行く。本部に会いに行くんじゃない。オーウェンを、連れて帰るだけだ」

ミラベルが、マーロウの袖をつかんだ。何も言わなかった。袖をつかむ手に、力が入っていた。

ハーランが、火の前で、ゆっくり言い切った。

『掘削地から東へ、馬で六日。道は、一本しかない。本部の荷車が通る道だ』

「本部の道か」

『道は、道だ。誰が作っても、歩けば着く』

ドラグが、小さく唸った。

「明日の朝、発つ」とマーロウが言った。


その日の昼過ぎ、ネルは、荷車の陰で、木を削っていた。

膝から下くらいの長さの、白い木だった。

ミラベルが、横にしゃがんで、覗きこんだ。

「なに作ってるの」

『ちびの、次の脚』

ネルは、鑢を動かしたまま言った。

『親父を連れて帰るころには、今のが、また短くなってる。あいつ、伸びるのが早いんだ。帰ったその日に、付け替えてやる』

「指、何本ぶん長くするの」

『二本。…いや、二本半』

ネルは、削りかけの脚を、光にかざした。

『あいつ、帰ってこなかったら自分で作るって言ったんだ。かあちゃんのやり方、見てたからって。…作らせてたまるか』

ミラベルは、ネルの肩に、頭をこつんとぶつけた。

「早く帰ろうね」

『うん』


夕方、西の道から、馬が一頭、駆けてきた。

乗っていたのは、ゴブリンの男だった。帝国の伝令の、灰色の短い上着。囲いの手前で馬を止め、降りずに、包みを一つ、放り投げた。

「一〇六番に。皇帝の名代からだ」

伝令は、それだけ言って、馬を返した。振り返らずに、西へ駆け去った。

包みは、布でくるまれていた。

ネルが、それを拾った。

布を開いた。

木の脚が、一本、出てきた。

膝から下の、木の脚。指一本ぶん、長く作ってあった。これから伸びるぶん、と言って、ネルが付けてやった脚だった。

ネルの手から、脚が落ちた。

包みの中に、紙が一枚、残っていた。ロズリンが、それを拾って、震える声で読んだ。

帝国暦三四九年、春。ハルデンの手足屋の子を、預かる。

一〇六番は、一人で、哨所の西の道に待つ馬車に乗ること。

乗ったと知らせが届けば、子は、家に返す。

一番が、ハルデンに近づけば、子は、返らない。

皇帝の名代。

誰も、動かなかった。

ネルが、落ちた木の脚を、両腕で抱きしめて、膝をついた。

声は、出ていなかった。

第十七章 了