第二十九章
名前の列

夜のあいだ、エミルは、名前を言い続けた。
マーロウは、一つも書かなかった。書く道具がなかった。書くやつは、まだ荷車の上にいた。代わりに、全部、覚えようとした。
二百八十九。
朝、塔の下の大広間に、灰色の服の人たちが集まっていた。誰かに集められたのではなかった。毎朝、ここで、その日の仕事を言い渡されるのだった。
壁が、喋った。
『今日の仕事を、言います』
マーロウは、広間の真ん中に立った。
「マティアス・フェンウィック」
広間の前のほうで、白髪の男が、一拍、止まった。
「クララ・ストラウド。ヨナス・ブラックウッド。ベルタ・ミルバーン」
一人ずつ、止まった。一拍ずつ。
「あんたらの家の名字は、十二人の名字だ。本部は、あんたらを、ここで粒にする気だ。…ついてこい。外へ出る」
壁が、言った。
『動かないでください』
止まった人たちは、壁と、マーロウのあいだで、動かなかった。
変わった者は、言われたことをする。二つのことを言われたら、どうするのか。マーロウは、知らなかった。
白髪の男、マティアス・フェンウィックの目が、ゆっくり、マーロウのほうへ動いた。
名前を呼んだ声のほうへ。
男が、一歩、踏み出した。
エミルが、マーロウの横に来ていた。
誰にも言われていなかった。
「…エミル」
『私も、呼びます』
エミルは、広間の後ろのほうへ向かって、名前を言いはじめた。平らな声だった。それでも、名前だった。
呼ばれた人が、一拍止まって、エミルのほうを向いた。
名前が、広間じゅうに、少しずつ広がっていった。呼ばれた人の何人かが、隣の人の名前を、口にしはじめた。毎朝、同じ広間に並んでいた隣の人の名前を、みんな、知っていた。
壁が、もう一度、言った。
『動かないでください』
誰も、壁のほうを向かなかった。
門の前に、手が、群れていた。
八メートルの手が、十二本。その足もとに、人の背丈ほどの手が、数えきれないほど。門を、隙間なく塞いでいた。
列の先頭で、ミラベルが、振り返った。
『坊や。朝の一滴と、二滴目、ちょうだい』
マーロウは、指の腹を噛んだ。一滴。もう一滴。
ミラベルの胸の奥で、深い音がした。
金属の目が、白く光った。
『みんな、ちょっと、目つぶってて』
変わった人たちは、言われたとおり、目をつぶった。
ミラベルが、消えた。
音と風が、あとから、広間の窓を鳴らした。
門の前の手が、一本残らず、崩れていた。十二本の大きな手は、指も手のひらも、門の両脇に積み上げられていた。小さな手は、白い道の端まで、転がっていた。
門が、開いていた。
ミラベルは、門の真ん中に立って、剣を肩に担いでいた。息一つ乱さずに。
それから、にっと笑って、膝をついた。
マーロウが走って、指の血を、唇に当てた。
「…今日の全部は、終わりだな」
『終わり。あとは、ふつうのあたし。…ふつうのあたしでも、たいていのものより、強いけど』
列が、門を出た。
先頭に、ミラベル。その後ろに、エミルを入れて、二百八十九人の灰色の服。オーウェンは、木の板に乗せられて、四人の男に運ばれていた。運んでいる男たちに、ミラが、指が二本になった木の手で、行く方向を示していた。
マーロウは、列のいちばん後ろを歩いた。
白い道が、西へ、まっすぐ伸びていた。
振り返ると、塔の灯りが、昼なのに、白く光っていた。
壁の声は、もう、届かなかった。
代わりに、マーロウの腰の袋の中で、何かが、かちりと鳴った。一の粒だった。取り上げられなかった、五百八十五の粒。
マーロウは、袋の上から、それを押さえた。
「…兄貴。見てるか。連れて出たぞ」
誰にも、聞こえない声だった。
三年のうちの、二十六日目だった。
第二十九章 了