第十一章
ハーラン

次の日、ネルは、揺れる荷台の上で、ずっと鑢を動かしていた。
夕方、マーロウの鉤を返した。
刃の腹に、細い溝が三本、切ってあった。髪の毛ほどの幅だった。
『血を塗ってみな』
マーロウは、左の手のひらを浅く切って、鉤に当てた。血が、溝に入った。鉤を振っても、落ちなかった。
『溝に入った血は、乾くまで残る。十回は振れる』
ネルは、もう一つ、革の小袋を出した。口が細く、底に、針で開けた穴がいくつも並んでいた。
『これに血を溜めて、振る。穴から、霧みたいに細かく散る。手で振るより、遠くまで、広く』
マーロウは、小袋を手に取った。
「…手の係の家だな」
『木の手しか作ったことないよ。…でも、昨日の見てたら、作りたくなった』
「助かる」
ミラベルが、荷台の縁から、覗きこんでいた。
『一日、二本まで。それ以上切ったら、あたし、その袋、取り上げるからね』
「分かった」
『ほんとに分かった?』
「二本だ」
ミラベルは、それを聞いてから、荷車の横を走りだした。
軽く走っているように見えた。それでも、馬を置いていった。荷車の前を回って、後ろへ戻ってくるまで、息一つ乱さなかった。
『前はね、この速さ、出さなかったの』
ミラベルは、並んで走りながら、言った。
『粒が、もったいなくて。速く走ると、たくさん燃えるから。…今は、出したいだけ出せる』
ミラベルは、にっと笑った。
『あたしも、覚えることにした。今まで一回も出さなかった速さ』
四日目の夕方、東の哨所が見えた。
石を積んだだけの、腰までの低い囲い。その中に、木と布の小屋が十四棟。一年前と、同じだった。
違うのは、囲いの外だった。
水路が三本。その両側に、麦に似た草が、膝の高さまで伸びていた。一年前にはなかった、緑の四角い畑だった。
その畑の上に、灰色の雲が、低く垂れこめていた。
低い唸り声がした。
畑の縁で、オークたちが、煙の出る松明を振り回していた。雲は、煙を嫌がって少し浮くが、すぐに戻ってきた。麦の葉先が、見ているうちに白く縮れていった。
マーロウは、荷車から飛び降りた。
左の手のひらを、一本だけ切った。血を、小袋に受けた。
麦の上から、雲へ流れていく霧の糸が見えた。
マーロウは、小袋を、大きく振った。
赤い霧が、扇の形に散った。
霧の糸が、十本、二十本、まとめて消えた。粒が、麦のあいだに、雨のように降った。
雲の音が、甲高くなった。
『真ん中、あそこ。水路の上』
ミラが、もう走っていた。水路の縁を蹴って、跳んだ。木の指が、黒い塊をつかんだ。
マーロウは、溝に血の残った鉤を、塊に当てた。
塊が、しぼんだ。
雲が、ほどけて、落ちた。
おとといは、何十回も振った。今日は、三回で終わった。
小屋の一つから、男が出てきた。
痩せた人間だった。顔の左半分の火傷も、眉のない顔も、一年前と同じだった。薄い灰色の目が、畑を見て、それからマーロウを見た。
ハーラン・ベッセルだった。
ハーランは、ゆっくり歩いてきた。
『…籠で下りていった男か』
「一年ぶりだな」
『一年と、少しだ』
ハーランは、麦の中にしゃがんで、縮れた葉を指で挟んだ。
『半分は、戻る。根が生きている』
それから、麦のあいだの粒を一つ、つまみ上げた。
『九年、空と書いた紙に判を押した。今は、毎日、麦のことを書いとる。…今日は、書くことが多い』
マーロウは、少しだけ笑った。
その夜、ハーランの小屋で、火を囲んだ。
『あの虫は、この春から出はじめた』
ハーランは、ゆっくり言い切った。
『東から来る。掘削地のさらに東。孤独の大地のほうからだ。向こうの土地が、乾いてきているらしい。住めなくなって、こっちへ出てきた』
「あの虫の真ん中のやつの腹に、昔の粒が入ってた。ほどけかけて、光ってた」
『そうだろう』
ハーランは、驚かなかった。
『向こうから来る獣は、どれも腹に昔の粒を抱えている。土の下の、昔の街の瓦礫から食うらしい。この春、掘削地の連中は、口から光を吐く獣を見たと言っていた。…水がなくなった土地では、獣は、粒をほどいて生きるようになる』
「何が乾かしてる」
『知らん。だが、見当はつく』
ハーランは、火の向こうの、東の暗がりを見た。
『春から、孤独の大地の荷車が、西へ通る。十日ごとに。錆びない金属の部品を山ほど積んで、海壁の街のほうへ行く』
ロズリンの筆が、止まった。
海壁の仕掛けを、全部、回します。
本部がそう書いたのは、十二日前の夜だった。荷車は、それより前の春から通っている。
『御者は、いつも一人だ』
ハーランは、続けた。
『染み一つない服を着ている。丁寧な口をきく。水を分けてくれと言って、礼を言って、行く。…名字を名乗る』
マーロウは、顔を上げた。
「次は、いつ来る」
『明日の朝だ』
朝、東の道に、荷車が一台、現れた。
馬が四頭。荷台に、布をかけた金属の塊が、積み上がっていた。
荷車は、哨所の囲いの前で止まった。
御者が、降りてきた。
若い男だった。埃のない、寸法ぴったりの服。整えた髪。考えているのでも、探しているのでもない顔。
一年前、孤独の大地で、マーロウに湯の桶と新しい服を用意した男だった。名字があるんだなと訊いたら、ついておりましたので、と答えた男。
男は、囲いの前で、丁寧に頭を下げた。
『アディ・ノールと申します。水を、分けていただけますでしょうか』
マーロウは、動けなかった。
「…アディ」
アディは、少しだけ首を傾けた。一年前と、同じ角度で。
『お会いしたことが、ございましたか』
第十一章 了