海壁

第二十一章

舌の血

挿絵:舌の血

少し前、岩の陰で、ドラグは、ミラの耳もとに顔を寄せていた。

「管を持っとるな」

『ある。二本。ネルが、くれた』

「あいつが、何かするつもりだ。窓を見とる」

ドラグは、胸の内側を、手で押さえた。四つに畳んだ紙が、そこにあった。ロズリンにもらった白い頁。この二日、火の番のあいだに、少しずつ、下手な字で書いてきた。

「血をもらったら、おまえは走れ。おれは、ここに残る。…こいつを、書き終えんといかん」

『ドラグは、書く人じゃない』

「知っとる。書くやつに、頼まれたんだ」

ミラは、金属の目で、ドラグの顔を見た。それから、頷いた。


マーロウは、口の中の血を、飲みこまなかった。

舌の上に、溜めた。

窓は、指二本ぶんだけ開いていた。夜の空気を入れるために、御者が開けていったものだった。

ミラが、岩の陰から出てきた。

地面を這うように、音を立てずに。腕のない頃から、見張るときは、いつもそうしていた。今は、木の腕を胸に抱えるようにして、馬車の車輪の陰まで来た。

窓の下で、ミラが、硝子の管を一本、持ち上げた。木の栓を、歯で抜いた。

マーロウは、窓に顔を寄せた。息をしに来た、というふうに。

唇を、窓の隙間に当てた。

血が、一滴、落ちた。

管の中に。

もう一滴。三滴目。

ミラが、栓をした。二本目を持ち上げた。

マーロウは、舌を、もう一度噛んだ。痛くなかった。痛くないから、深く噛めた。

二本目にも、三滴。

ミラが、栓をした。二本の管を、胸に抱えた。金属の目が、マーロウを見上げた。

マーロウは、窓の隙間から、唇だけで言った。

走れ。


『いい夜ですね』

背中で、声がした。

セラフィナが、目を開けていた。

白い手袋の指先を、唇に当てていた。

指先が、光った。

光の糸が、窓の隙間から、外へ走った。ミラの抱えた管を目がけて。

ミラが、跳んだ。

糸が、ミラのいた地面を裂いた。砂が、刃物で切ったように、まっすぐ割れた。

岩の陰から、ドラグが飛び出した。鉄の棒を振りかぶって、馬車の戸に叩きつけた。

戸が、吹き飛んだ。

セラフィナは、座ったまま、指を振った。

糸が三本、鉄の棒に巻きついた。

鉄の棒が、四つに切れて、砂に落ちた。

糸が、ドラグの両足に巻きついた。ドラグの巨体が、前のめりに倒れた。

『オークの方。あなたには、用がありません』

セラフィナは、指先を、もう一度舐めた。

糸が、また、光った。今度は、ミラの背中へ。


マーロウの口の中には、まだ、血が残っていた。

あの女の指先は、今、濡れている。

マーロウは、身を乗り出した。

セラフィナの白い手袋の、光る指先に向かって、口の中の血を、吹きつけた。

赤い霧が、指先にかかった。

濡れた指先の、唾に、血が触れた。

光が、消えた。

糸が、ほどけるように、空中で消えた。ミラの背中の、指一本ぶん手前で。

セラフィナの指先から、小さな粒が一つ、ぽろりと膝に落ちた。

セラフィナは、それを見下ろした。

初めて、顔に何かが浮かんだ。驚き、に近いものだった。

「…濡れてなけりゃ、ほどけない」

マーロウは、血のついた口で言った。

「おれの血は、濡れてるところを、乾かす」


ドラグが、足の糸がほどけたのを知って、跳ね起きた。

「ミラ! 走れ!」

ドラグは、叫んだ。

「姉貴のとこへ! 西だ! 振り返るな!」

ミラは、振り返らなかった。

木の腕に二本の管を抱えて、闇の中を、西へ走った。刃の体の脚は、馬より速かった。白い砂の上に、小さな足跡が一本、まっすぐ伸びて、すぐに見えなくなった。

セラフィナは、追わなかった。

新しい手袋を一組、座席の下の箱から出して、はめ直した。

それから、御者の兵に言った。

『布を。一〇六番の口に、噛ませておきなさい。本部に着くまで』

兵が、布を持ってきた。

マーロウは、逆らわなかった。

布を噛まされる前に、ドラグのほうを見た。

「行け。…ついてこなくていい。みんなに、伝えろ」

ドラグは、切れた鉄の棒の、いちばん長いかけらを拾った。

『…白い道の入り口までは、見届ける。それから、帰る』

「頑固だな」

『兄貴に似てな』

布が、マーロウの口に噛まされた。

馬車が、動きだした。

セラフィナは、膝の上の小さな粒を、指でつまんで、窓から捨てた。

『…今のは、覚えておきます』

平らな声だった。けれど、さっきより、ほんの少しだけ、低かった。

第二十一章 了