海壁

第十四章

歩いて行く

挿絵:歩いて行く

朝、ネルは、崩れた手の横にしゃがみこんでいた。

落ちた指を一本ずつ裏返して、切り口を覗いていた。それから、アディの荷車の布をめくって、積み荷の金属を撫でた。

『…うちのやり方だ』

ネルは、呟いた。

『腱を、手首で一度交差させて、肘へ引く。この指も、荷の部品も。全部、同じ』

「何の部品だ」とマーロウが訊いた。

『腕だよ。でかい腕の、骨と筋。…壁の中に通す長さだ』

ネルは、部品の端に刻まれた印を指でなぞった。

ロズリンが、後ろから覗きこんで、息を止めた。

『海壁の仕掛けを、全部、回します』

本部の字を、ロズリンは、声に出して言った。

『三年で西の海を粒にする仕掛けの、腕です。…十日ごとに、ここを通って、海壁の街へ運ばれていた』

マーロウは、西の空を見た。

海壁の街には、ウィラがいる。

「荷車を止めれば、その腕は、壁に届かない」

『届かないぶん、三年が、延びるかもしれません』

次の荷車は九日後だ、とハーランが、焼けた麦のあいだから言った。


アディは、荷車の御者台に座っていた。

言われていないので、降りなかった。言われていないので、東へ帰りもしなかった。

ネルが、その横に腰かけた。

「あんた、昨日、あたしに怪我はないかって訊いたろ」

『…訊きました』

「誰かに、そうしろって言われたのか」

アディは、少しだけ首を傾けた。

『いいえ』

「じゃあ、なんで訊いた」

アディは、長いこと黙っていた。

『…母が、よく、そう訊きました。パンの窯で、手を焼いた者に』

ネルは、アディの横顔を見た。

「母ちゃんの名前は」

『ハンナ・ノール、でございます』

アディは、すらすらと言った。

それから、自分の口を、指で押さえた。

自分の声に、自分で驚いたような顔だった。

ネルは、何も言わなかった。黙って、アディの肩を一度だけ叩いて、御者台を降りた。


囲いの石の上で、ミラベルが、足をぶらぶらさせていた。

マーロウが上がっていくと、ミラベルは、横の石を手で叩いた。座れ、という意味だった。

『ねえ、坊や』

「なんだ」

『昨日の、もう一回言って』

「何をだ」

『一番強いってやつ』

マーロウは、東の地平線を見ていた。

「…一番強い」

ミラベルは、膝を抱えて、にやにやした。それから、にやにやが、少しずつ、別の顔になった。

『あたしね、強いのが、初めてうれしいの』

「前は、違ったのか」

『前は、強いのは、止まるまでの時間だった。強く動くほど、粒が減って、早く止まる。だから、強いって言われるの、ちょっと嫌いだった』

ミラベルは、マーロウの肩に、こつんと頭をぶつけた。

『今は、強いぶんだけ、坊やを守れる。止まらない。…すっごく、うれしい』

マーロウは、しばらく黙っていた。

それから、ミラベルの頭に、手を置いた。

ミラベルが、固まった。

『…それ、嬢ちゃんにやるやつじゃん』

「おまえにも、やる」

ミラベルは、耳まで赤くなって、動かなくなった。


昼、ミラが、囲いの石の上で、東を見ていた。

『…来る』

金属の目が、細くなった。

『東。砂煙。たくさん。…指で、歩いてる』

マーロウは、囲いに上がった。

地平線に、砂煙が一本、立っていた。煙の足もとで、光るものが動いていた。錆びない金属が、日を返していた。

一つ。三つ。七つ。

十二。

八メートルの手が、十二本。五本の指で地面を掻いて、横一列に並んで、こちらへ走ってきていた。

ドラグが、低く唸った。

「…昨日のが、十二か」

『計算を、やり直します』

ロズリンが、夜の板の字を、もう一度口にした。

『やり直した答えが、あれです』

哨所の人たちが、小屋から飛び出してきた。オークたちが、松明をつかんだ。人間たちが、麦畑の縁で立ちすくんだ。ハーランは、動かなかった。


ミラベルが、荷車から、名前のない剣を取った。

朝の一滴は、もう受けていた。

ミラベルは、剣を肩に担いで、囲いの外へ歩き出した。

『坊や。みんなと、囲いの中にいて』

「一人で行く気か」

『一人で、足りる』

ミラベルは、振り返った。いつもの顔で、笑っていた。

『二滴目は、いらない。一滴目で、十二本くらい、平気』

「昨日は、二滴使った」

『二滴目は、箱を捨てに走るのに使っただけ。手は、一滴目で切ったもん。…それに、昨日、覚えたの。箱は、濡れなきゃ光らない。管を先に抜けばいい』

ミラベルは、剣の背で、自分の肩を軽く叩いた。

『今日は、急がない。…ちゃんと、見てて』

ミラベルは、麦畑のあいだを、歩いていった。

走らなかった。

十二本の手が、砂煙を上げて迫ってくる、その真正面へ。一人で。

ドラグが、囲いの石に手をかけて、それを見ていた。

「…あいつ、歩いとる」

ハーランが、小さく言った。

『長いこと、腹を空かせて走っていた女が、腹いっぱいで歩いている』

手の列が、ミラベルまで、五十メートルに迫った。

十二本の、六十本の指先が、いっせいに白く光った。

ミラベルは、剣を肩から下ろした。

第十四章 了