海壁

第二十三章

書いてきた

挿絵:書いてきた

その日の夕方、三人は、東の哨所の囲いに着いた。

ロズリンが、囲いの石を越えて、走ってきた。帳面を、胸に抱えたまま。

『ミラベルさん!』

「ただいま、ロズリン」

ミラベルは、笑った。まだ少し、顔色が戻りきっていなかった。

ロズリンは、ミラベルの手を取って、それから、ミラの木の腕を見た。

『ミラさんは、きのうの夜、この囲いの前を、走り抜けていきました。止まりもせずに。西へ』

止まったら遅れる、とミラが言った。

小屋の裏から、パンの匂いがした。アディ・ノールが、窯の前で、焼けたパンを布にくるんでいた。

ハーランが、眉のない顔で、三人を見回した。

『…一人、足りないな』

「迎えに行く」

ミラベルは、言った。


次の日の昼過ぎ、東の道を、大きな影が一つ、歩いてきた。

ドラグだった。

服が、あちこち裂けていた。左の肩の包帯が、砂で茶色くなっていた。手に、切れた鉄の棒の、いちばん長いかけらを持っていた。囲いの外に、見たことのない馬が一頭、つないであった。白い道の入り口で、本部の荷車の替え馬が繋がれていたのを、黙って一頭借りてきた、とドラグはあとで言った。

ロズリンが、帳面を置いて、囲いの外へ出た。

走らなかった。走りかけて、やめて、歩いた。

ドラグの前で、止まった。

ドラグは、胸の内側から、四つに畳んだ紙を出した。

「書いてきた」

ロズリンは、紙を開いた。

太くて、曲がって、ところどころ穴の開いた字だった。

帝国暦三四九年、春。馬車、東へ。マーロウ、生きとる。

ミラ、はしった。マーロウ、舌をかんだ。いたくない顔しとった。

女の手ぶくろ、光る糸。鉄がきれる。ぬれてないと、きれない。

馬車、白い道に入った。見とどけた。

すわりに、かえる。

ロズリンは、声に出して読んだ。最後の一行で、声が詰まった。

『…字が、汚いです』

「知っとる」

『穴が、開いています。力を入れすぎです』

「知っとる」

ロズリンは、紙を、帳面のいちばん新しい頁に、丁寧に挟んだ。

それから、ドラグの裂けた袖を、指でつまんだ。

『…おかえりなさい、隊長』

「座りに来た」

ロズリンは、ドラグの腕に、額をつけた。

長いこと、そうしていた。


夜、ハーランの小屋に、全員が集まった。

ロズリンが、硝子の板を、机の上に置いた。

『本部は、私たちに来てほしいのです。止めはしません』

ロズリンは、静かに言った。

『だから、入るのは、簡単です。…出るのが、難しい』

アディが、火の前に立っていた。

誰も、アディに何も言っていなかった。アディは、自分で、口を開いた。

『私が、御者をいたします』

全員が、アディを見た。

『荷を届けられなかった荷車は、戻って申し出るように、言われております。戻る荷車を、止める者は、おりません』

「…行きたいのか。あんたは」とドラグが訊いた。

アディは、少しだけ首を傾けた。

それから、首をまっすぐに戻した。

『はい』

ネルが、アディの肩を、黙って一度だけ叩いた。


ミラベルは、帯の中の、空の管を見ていた。

ミラが運んできた二本のうち、一本は昨日の昼に、もう一本は今朝、飲んだ。帯の中には、空の管が二本あるだけだった。

明日の朝からは、ない。

荷車なら、孤独の大地まで、七日近くかかる。

ミラベルは、顔を上げた。

「あたし、先に行く」

ロズリンが、息を呑んだ。

「走れば、二日半。坊やのとこまで、着ける」

『着く前に、止まったら』

「着く」

ミラベルは、笑わなかった。

「着いたら、坊やの指から、一滴もらう。それで、全部、出せる。…坊やのそばなら、あたしは、誰にも負けない」

ミラが、ミラベルの横に立った。

『ミラも、行く』

「あんたは、荷車と…」

『行く。見る。…姉ちゃんが止まったら、ミラが、運ぶ』

ミラベルは、ミラの顔を、長いこと見ていた。

それから、ミラの額に、自分の額をつけた。

「…分かった。二人で行こ」


夜明け、ミラベルは、何も飲まずに、ミラと並んで、東の白い道のほうへ、走りだした。

少し遅れて、アディの荷車が、囲いを出た。御者台にアディ。荷台に、ネルと、ロズリンと、ドラグ。

ハーランが、焼けた麦畑の縁に立って、それを見送った。手は、振らなかった。

麦の根は、まだ、生きていた。

第二十三章 了