第二十六章
三日目

夜明けに、ミラは、孤独の大地の門をくぐった。
背中に、ミラベルを負ったまま。指が三本になった木の手で、ミラベルの膝を抱えて。
門の両脇に、錆びない金属の手が、二本立っていた。八メートルの手。指先が、ミラのほうを向いた。
撃たなかった。
指は、ゆっくりと、横へ退いた。道を空けるように。
壁が、喋った。
『一番。ようこそ』
抑揚のない声だった。
『一〇六番は、東の棟の、白い部屋です。…間に合いません。あなたは、今日の昼に、止まります』
ミラは、答えなかった。
白い廊下を、東へ歩いた。埃一つない床。寸法ぴったりの灰色の服を着た人たちが、廊下の両側に立って、二人を見ていた。誰も、止めなかった。誰も、声をかけなかった。
ミラベルの腕が、ミラの肩から、だらりと下がった。
『…姉ちゃん』
「…起きてる。まだ」
声が、息と同じくらい小さかった。
白い部屋の戸は、開いていた。
マーロウが、椅子に座っていた。
両手が、椅子の肘掛けに、錆びない金属の輪で留められていた。昨夜、この椅子でうとうとしたあいだに、肘掛けから伸びてきた輪だった。一番が来るまで手は使わないでください、と壁は言った。指一本、動かせなかった。隣の寝床で、オーウェンが、浅い息をしていた。
マーロウは、戸口の二人を見た。
立ち上がろうとした。輪が、椅子ごと、びくともしなかった。
「ミラベル」
ミラが、ミラベルを、マーロウの足もとに下ろした。
ミラベルは、床に座りこんで、マーロウの膝に、額をつけた。
『…来た』
「ああ」
『今日も、いた。…坊や、数えた?』
「毎朝、数えた」
ミラベルの唇が、少しだけ笑った。白く、割れた唇だった。
壁が、喋った。
『一〇六番。原型になると言ってください。輪を、外します。一番に、一滴を与えられます』
マーロウは、壁を見なかった。
『言わなければ、昼に、一番は止まります。私は、嘘をつきません』
窓から、日が差しこんでいた。床の上の日の形が、少しずつ、短くなっていった。
昼が、近かった。
ミラベルの目の光が、薄くなっていった。
ミラが、マーロウの手首の輪に、木の指をかけた。引いた。輪は、動かなかった。木の指が、一本、音を立てて折れた。
「ミラ。いい」
マーロウは、言った。
「手じゃなくていい」
マーロウは、舌の先を、奥歯で噛んだ。
強く。
口の中に、血の味が広がった。
「ミラベル。顔、上げろ」
ミラベルが、ゆっくり、顔を上げた。
『…なに』
「キスしてやる」
ミラベルの薄い目が、少しだけ、見開かれた。
マーロウは、椅子に縛られたまま、身をかがめた。
唇が、重なった。
血が、ミラベルの口の中に、流れこんだ。
ミラベルの胸の奥で、音がした。
ことり。
ミラベルの目に、光が戻ってきた。唇の割れ目が、ゆっくり、閉じていった。
マーロウは、唇を離さなかった。
舌を、もう一度、噛んだ。
二滴目。
ミラベルの胸の、もっと深いところで、何かが、はまった。
ミラベルの金属の目が、白く光った。
壁の声が、一拍、遅れた。
『…一〇六番。それは』
マーロウは、ようやく唇を離した。口の端から、血が一筋、垂れていた。
「手は、使ってない」
ミラベルが、立ち上がった。
自分の唇を、指でなぞった。赤いものが、指についた。
それを見て、ミラベルは、笑った。マーロウが見たなかで、いちばん、きれいな顔で。
『…今の、いちばん好きなキス』
第二十六章 了