第三章
手足屋

三年のうちの、六日目の昼。荷車は、ハルデンの谷に下りた。
谷の幅は、四百メートルほど。両側の崖に、昔の街の瓦礫が、何層にも埋まっていた。崖のあちこちに穴があって、人が出入りしていた。掘り場だ。
家は、錆びた鉄の板でできていた。人間と、オークと、ゴブリン。三千人ほどの町だ、とドラグが言った。
谷の上に、白い建物が一つだけあった。
石の壁に、染み一つなかった。町でいちばんきれいな建物だった。
施療所だ、と誰も言わなかった。言わなくても、全員が分かった。
井戸の前で、水を汲んでいたオークの女に、ロズリンが訊いた。
グリムという家は、どこか。
女は、桶を置いて、坂の下を指さした。
『手足屋なら、あそこ。…オーウェンの娘に用かい。口が悪いよ』
坂の下に、鉄の板の店があった。軒先に、木を削った手が一つ、看板代わりに吊るしてあった。
戸は、開いていた。
中は、手と足だらけだった。
木の手。鉄の鉤。革の帯。膝から下の、木の脚。壁一面に、吊るしてあった。掘り場で手足をなくした者のための店だ、とマーロウは思った。
奥で、金槌の音がしていた。
「誰かいるか」
金槌の音が、止まった。
女が、出てきた。
人間だった。二十五、六に見えた。黒い髪を短く切って、後ろで銅の針金で縛っていた。灰色の目。頬に煤。右の前腕に、古い火傷の跡があった。
手に、金槌を持ったままだった。
女は、マーロウたちを、上から下まで見た。ミラベルの左腕で、目が止まった。
『施療所の犬なら、帰りな。うちの親父は、もう持ってかれた』
「犬じゃない」
『じゃあ何だ。その腕の女、本部の刃だろ。噂は、ここまで来てる』
マーロウは、この女が嫌いではないと思った。ヴェスタと同じで、嘘の通じない顔をしていた。
ミラベルが、一歩前に出た。
両手を、体の前で、ぎゅっと握っていた。
「あたし、ミラベル。…ミラベル・グリム」
女の眉が、上がった。
『は?』
「名字、勝手にもらったの。本部の中で、あたしを作った技師から。オスカー・グリムって、爺さん」
女の金槌が、下がった。
『…オスカー』
女は、しばらく、ミラベルの顔を見ていた。
それから、何も言わずに奥へ引っ込んで、分厚い帳面を抱えて戻ってきた。
針金で綴じた帳面だった。最初のほうの頁は、茶色く、端が崩れかけていた。
女は、途中の頁を開いた。一行を、指で押さえた。
オスカー・グリム。帝国暦百三十八年、本部に召される。片腕をなくして一度帰り、また行った。帰らず。
『うちの家の帳面だ。代々、つけてる』
女の声が、少しだけ低くなった。
『帰らず、で止まってる。この行の続きを、二百年、誰も書けなかった』
ミラベルは、その字を見ていた。
「…爺さん、毎朝、あたしに、おはようって言ったの」
声が、震えた。
「あたしが返事しなくても。十年、毎朝。…あたしに名前をくれて、刃のためだけに生まれたんじゃないって言って、次の年に、死んじゃった。本部の中で」
女は、帳面を押さえたまま、黙っていた。
それから、煤のついた手の甲で、目をこすった。
『…そうかよ』
店の奥の戸の陰から、小さな顔がのぞいていた。
ゴブリンの子だった。八つくらい。耳が大きくて、左の膝から下が、木の脚だった。
「ネル、泣いてんの?」
『泣いてない。煤だ』
「泣いてる」
『うるさい。奥にいな、ピップ』
女は、ネル・グリムと名乗った。
ロズリンが、写してきた二行を見せた。
ハンス・グリム。三三一年、冬。オーウェン・グリム。三四六年、秋。どちらも、本部行き。
ネルの顔から、色が引いた。
『ハンスは、じいさんだ。あたしが八つの冬に、熱で死んだ。…親父も、三年前の秋に、熱で死んだ。施療所の役人が、そう言いに来た。熱病の死体は、まとめて埋めたって』
マーロウは、その言い方を知っていた。母さんのときと、同じ言い方だった。
「死んでない」
マーロウは言った。
「おれの母さんも、同じ欄に載ってた。連れていかれて、生きてた」
ネルは、マーロウを見た。
灰色の目が、揺れていた。
『…親父が、生きてるかもしれないってことか』
「かもしれない」
ネルの手が、帳面の上で、震えた。
戸を叩く音がした。
三度。重く。
ネルが戸を開けると、白い服の役人が一人、紙を持って立っていた。
その後ろに、大きな男がいた。
人間だった。白い髭。背が高く、肩が広い。灰色の軍服の胸に、将軍の印。
マーロウは、その顔を知っていた。
グレイ。帝国の東の将軍。昔、ドラグを海壁の隊長に任じた男。少し前、共和国の畑に六百の施療所の兵を連れてきて、ドラグと素手で組み、肩越しに投げられて北へ退いた男だった。
グレイの目が、店の奥のドラグで止まった。
ドラグも、動かなかった。
役人が、紙を広げた。
『ネル・グリム。本部より、指定があった。施療所へ、同行を』
「…熱なんか、出てない」
『熱の有無は、問わない。そう指示が来ている』
ロズリンが、ネルの横から前に出た。
「その指示は、いつ来ましたか」
『一昨日の夜だ』
ロズリンの顔が、白くなった。
一昨日の夜。赤い砂の上で、ロズリンが、硝子の板に問いを書いた夜だった。
グレイが、役人を下がらせた。
戸口に立って、ドラグを見た。
『また、会ったな』
「会いたくはなかった」
『私もだ』
グレイは、店の中の顔を、一つずつ見た。マーロウ。ミラベルの左腕。ロズリンの帳面。ネル。
『今夜は、連れていかん。明日の朝の鐘で、施療所の兵が迎えに来る』
「前の六百と、同じか」
『違う』
グレイは、低く言った。
『今度の兵は、噛む』
第三章 了