海壁

第十六章

計算の外

挿絵:計算の外

夕方、ドラグは、小屋の前の木箱に座らされていた。

左の肩が、焼けていた。十三本目の指先に撃たれた痕だった。

ロズリンが、水と布を持って、その前に膝をついた。

『動かないでください、隊長』

「動いとらん」

『今、動きました』

ロズリンは、焼けた皮膚に、濡らした布を当てた。ドラグの肩が、少しだけ跳ねた。

「…書くやつに、手当てされるとはな」

『書く手でも、包帯は巻けます』

ロズリンは、布を巻き終えた。

巻き終えても、手を離さなかった。ドラグの大きな手の上に、自分の手を置いたままだった。

ドラグは、何も言わなかった。

自分の手を、裏返した。ロズリンの手を、下から、そっと握った。

ロズリンは、眼鏡の奥で、瞬きを二度した。

それから、帳面を膝に広げて、片手で書いた。

帝国暦三四九年、春。隊長、左肩に火傷。手当ては、書記。

もう片方の手は、握られたままだった。


店の小屋の前で、ネルが、ミラの木の腕を外していた。

右の腕の、肘の蝶番が曲がっていた。砂に削られた指が、三本、欠けていた。

ネルは、道具箱を開けて、鑢と、新しい木を出した。

「グリムの腕は、グリムが直す」

ミラは、腕のない肩で、ネルの手もとを見ていた。

『…ネルも、グリム』

「血は、一滴もないけどな」

『ミラも、ない』

ネルは、手を止めて、ミラの顔を見た。

それから、声を出して笑った。

「そうだった。おそろいだ」

蝶番を打ち直す音が、夕方の哨所に響いた。ミラは、その音を、最後まで聞いていた。

直った腕を、肩に吊ってもらってから、ミラは、木の指を一度閉じて、開いた。

『…ありがと、ネル』

ネルは、鑢を落としかけた。


アディは、崩れた十三本の手の前に、立っていた。

ロズリンが、その横に行った。

アディは、手を見たまま、口を開いた。

『…私は、あの手と一緒に、ここまで参りました』

「はい」

『あの手は、あの方を、連れていこうとしました』

アディは、少しだけ首を傾けた。一年前と同じ角度だった。けれど、傾けたまま、元に戻らなかった。

『…止めなければ、ならなかったのでしょうか。私は』

ロズリンの筆が、止まった。

変わった者は、自分から問いを持たない。持たないはずだった。

「それを、訊けるのは」

ロズリンは、ゆっくり言った。

「あなたが、戻りはじめているからです。…答えは、急がなくていいです」

アディは、長いこと、手を見ていた。


夜、荷車の下に、毛布を敷いた。

ミラベルは、マーロウの腕の中で、丸くなっていた。まだ、顔色が戻りきっていなかった。

『…ごめんね』

「何がだ」

『全部出したら、帰ってこられないって、分かってた。自分で言ったのに』

ミラベルは、マーロウの服を、ぎゅっとつかんだ。

『でも、坊やが連れていかれるほうが、怖かった。あたしが止まるより、ずっと』

マーロウは、ミラベルの髪に、顎を乗せた。

「一滴目で、起きなかったな」

『…うん』

「一の墓の前より、怖かった」

ミラベルが、顔を上げた。

マーロウは、目をそらさなかった。

「やるな、とは言わない。おまえは、やる。…だから、おれが、連れていかれないようにする」

ミラベルの目に、涙がたまった。

『好き』

「知ってる」

『大好き』

「…おれもだ」

ミラベルは、マーロウの胸に顔をうずめて、動かなくなった。


その夜更け、硝子の板が、ひとりでに光った。

ロズリンが、それを持って、荷車の下を覗いた。マーロウは、眠っているミラベルを起こさないように、首だけ回して、字を読んだ。

一番の出力は、私の計算の外にあります。

一番は、私が作ったものの中で、最も強い。私の手では、止められません。

ですから、止められる者に、売りました。

一番の止め方を。帝国に。

ロズリンの手が、震えた。

ロズリンは、震える指で、字を書いた。

止め方とは、何ですか。

答えは、すぐだった。

一〇六番の血です。

一番は、一〇六番の血がなければ、止まります。

マーロウは、腕の中の寝顔を見た。

小さな寝息を、立てていた。

三年のうちの、十四日目の夜だった。

第十六章 了