第十二章
本部の手

「会った。一年前、孤独の大地で」
マーロウは、アディの前に立った。
「おまえは、湯を桶に三杯用意した。寸法ぴったりの服も。名字があるのかと訊いたら、ついておりましたので、と言った」
アディの目が、一拍、止まった。
『…覚えて、おります』
平らな声だった。それでも、答えは、答えだった。
『三十日、壁を登ってこられた方です。お体を洗われるあいだ、袋と筒を、湯桶の下に隠しておられました』
「見てたのか」
『見ておりました。何も、するなと言われておりませんでしたので』
ミラベルが、マーロウの後ろで、小さく笑いかけて、やめた。
変わった者は、記憶をなくさない。自分が自分だという感じだけを、なくす。後ろから、自分を見ている。
ロズリンが、帳面を抱えて、前に出た。
「アディさん。あなたの家は、どこでしたか」
『北のヴェルンという町の、施療所の前の、パン屋でございました』
アディは、すらすらと答えた。
『帝国暦三三八年の冬に、熱を出しました。そこから先のことは、よく、見ておりません』
ロズリンの筆が、紙の上で止まった。
ヴェルン。ヒューゴの台帳の東の施療所には、ない町だった。ノールの行がなかったのは、そのせいだろう。ロズリンは、そう思った。
アディの荷車の荷台で、布が、動いた。
風ではなかった。
布の下の、錆びない金属の塊が、起き上がっていた。
布が、滑り落ちた。
手だった。
人の手の形をした、錆びない金属の塊。手首から先だけで、高さが八メートル。五本の指を地面につけて、蜘蛛のように立ち上がった。手のひらの真ん中に、丸い硝子の目が一つあった。
それが、ゆっくり、こちらを向いた。
『…荷の、守りでございます』
アディが、平らな声で言った。
『荷を止める者がいれば、退けるように、と』
「止めるなんて、まだ言ってない」
『手は、そう数えないようでございます』
人差し指の先が、光った。
白い線が、走った。ハーランの麦畑の上を。麦が、一列、火を吹いて倒れた。
中指。薬指。
三本の線が、ドラグを狙った。ドラグが、ロズリンを抱えて、囲いの石の陰へ跳んだ。石が、赤く溶けた。
ネルが、道具箱を抱えたまま、走った。線が、その足もとを焼いた。ネルが、転んだ。
「ネル!」
マーロウが、ネルの前に飛び出した。
指が、止まった。
五本の指先が光ったまま、マーロウに向いて、撃たなかった。
『撃ちません』
ロズリンが、石の陰から叫んだ。
『あなたには、撃っていません。本部は、あなたの体を傷つけたくない。…あなただけは、狙わないように作ってあるんです、きっと!』
マーロウは、ネルを後ろにかばったまま、手を見上げた。
盾になれる。自分だけは。
だが、盾は、一つしかなかった。
ミラベルが、左腕の刃を伸ばした。
手の指の付け根へ、跳んだ。刃を振り抜いた。
刃は、錆びない金属の上を、滑った。火花だけが散った。
「…やっぱり、これじゃ切れない」
ミラベルの刃は、錆びない金属を切れない。肉のつなぎ目なら、切れる。この手には、肉が、どこにもなかった。
ミラベルは、荷車へ跳んだ。名前のない剣を、つかんだ。
その一瞬に、手が動いた。マーロウの横を、すり抜けるように。小指が、横から伸びた。
ネルの体を、すくい上げた。
手が、立ち上がった。八メートルの高さに。握った小指の中で、ネルが、もがいていた。指が、少しずつ、閉じはじめた。
ネルの悲鳴が、上がった。
悲鳴は、途中で止まった。
ミラベルが、八メートルの高さにいた。小指の、付け根の上に。
剣が、一度だけ、光った。
小指が、付け根から、滑り落ちた。切り口は、鏡のようだった。錆びない金属が、布のように切れていた。
ミラベルは、落ちていく指を蹴った。宙に放り出されたネルに追いついて、片腕で抱きとめた。そのまま、マーロウの横に降りた。膝も、つかなかった。
「…ひと息、だった」
ドラグが、石の陰から、呟いた。
手が、残りの四本の指先を、ミラベルに向けた。
四本の白い線が走った。ミラベルは、線と線のあいだにいて、次の瞬間には、手の甲の上にいた。
人差し指。中指。薬指。
三本が、同時に落ちたように見えた。実際には、三度、剣が振られていた。マーロウの目には、一度にしか見えなかった。
残った親指が、ミラベルをつかもうとした。
ミラベルは、親指の爪の上に、立っていた。
『遅いよ』
剣が、親指の関節を割った。
指を全部なくした手が、地面に崩れた。
朝の一滴だけで、ここまでだった。
手のひらの、硝子の目が、赤く光った。
手のひらが、中から開いた。
箱があった。粒が、何十も詰まった箱。その上に、細い硝子の管が一本。管の中の水が、一滴ずつ、粒の上に落ちていた。落ちるたびに、箱の光が、強くなった。
『…濡らして、全部、ほどく気です!』
ロズリンの声が、裏返った。
『一粒全部ほどけるだけで、壁の灯り千個の、二千八百年ぶんです。あれが、全部、一度に…!』
哨所が、消える。畑も。ここにいる全員も。
マーロウは、左の手のひらを見た。今日は、まだ一本も切っていない。だが、箱は、手のひらの奥だった。届く前に、光る。
ミラベルが、マーロウの前に降りた。
『坊や。一滴、ちょうだい。今』
「何をする」
『箱を、遠くへ捨ててくる。光るより先に、ずっと遠くまで。…一滴目じゃ、間に合わない』
ミラベルは、自分の胸に、金属の指を当てた。
『エリスさんが言ってた。最初の設計では、この血で動くはずだったって。坊やの血が、あと一滴あれば、たぶん、設計どおりに燃やせる。作られてから一回も、全部は出したことないけど』
箱の光が、また強くなった。
マーロウは、鉤の先で、左の人差し指を突いた。
赤い点を、ミラベルが、唇で受けた。
胸の奥で、音がした。
ことり、ではなかった。もっと深いところで、何かが、はまる音だった。
ミラベルの金属の目が、白く光った。
『…行ってくる』
第十二章 了