第四章
一晩

グレイが帰ったあと、ネルは、戸に背中をつけた。
『逃げないよ』
誰も、何も訊いていなかった。ネルは、自分に言っていた。
『ここが店だ。ちびもいる。親父が帰ってくるのも、ここだ』
ネルの目が、ミラで止まった。腕のない肩で。
『…その子、腕、どうした』
「外したの。あたしが」
ミラベルが答えた。
「本部の金属の腕だった。つなぎ目から、粒が漏れて、いつもお腹すかせてた。外したら、止まったの」
ネルは、ミラの前にしゃがんだ。肩のつなぎ目を、じっと見た。触らなかった。
『つなぎ目には、触らない。肩から胴に、革を回して吊る。肩を上げれば、指が閉じる。肩を回せば、肘が曲がる。木と、鉄と、革だけだ。粒の仕掛けは、一つもない。漏れようがない』
ミラベルが、ミラの肩に手を置いた。
「ミラ。腕、もらえるって」
『…ミラの、腕?』
「あんたの腕だ」とネルは言って、袖をまくった。「一晩くれ」
夜じゅう、店の奥で、金槌と鑢の音がしていた。
ピップが、ネルの横で、言われる前に次の道具を差し出していた。
「ネル。明日、連れてかれるの?」
『連れてかれない』
「ネルがいなくなったら、おれの脚、誰が直すの。また背、伸びたのに」
ネルの鑢が、止まった。
ネルは、ピップの頭を、煤だらけの腕で、ぐいと引き寄せた。
『あんたの脚は、あたしが一生直す。背が伸びるたびに、作り直す。…そう言ったろ』
ピップは、ネルの腕の中で、そのまま眠った。
夜更けに、戸が一度だけ叩かれた。
ドラグが開けると、グレイが一人で立っていた。兵も、役人も連れていなかった。
二人は、店の前の石段に、並んで腰を下ろした。マーロウは、戸の内側で、それを聞いていた。
『畑で負けたあと、皇帝の命が来た』
グレイは、夜の谷を見たまま言った。
『施療所の兵に、古い粒を噛ませろ、と。掘り場の瓦礫から出る、刻印のない昔の粒だ。噛んで、唾で濡らすと、結び目がゆるむ。ゆるんだぶんが、力になる』
「ほどき、か」
『帝国の古い書庫では、そう呼んでいる。昔の人間の、戦のやり方だ』
グレイは、自分の大きな手を見下ろした。
『噛んだ兵は、光る。十倍の力で殴り、家の屋根まで跳ぶ。痛がらない。怖がらない。…そして、十分ほどで、自分の体が内側から焼ける』
ドラグの拳が、鳴った。
「兵を、焼くのか」
『変わった者は、焼けろと言われれば焼ける。止まれと言われなければ、止まらん』
「あんたは、それを連れてきた」
『反対はした。命は変わらなかった』
グレイは、ドラグを見た。
『おまえの連れの刃は、畑で、施療所の兵を一人も斬らなかった。斬れなかった。陛下は、それを聞いて、あの兵を選んだ。…あの刃には、ほかのものでは勝てんと、陛下も分かっている』
『おまえの前で、兵を焼きたくない。娘を渡せ。そうすれば、誰も噛まずに済む』
「渡さん」
ドラグは、すぐに答えた。
「兄貴に似て、頑固でな」
グレイは、長いこと黙っていた。
それから、立ち上がった。
『なら、明日だ。…おまえを壁に立たせたのは、私だ。あのとき、おまえは、一度も退かなかった』
白い髭の背中が、坂を上がっていった。
マーロウは、屋根に上がった。
ミラベルが、先に来ていた。膝を抱えて、谷の上の白い壁を見ていた。
『聞いてた。噛む兵のこと』
「ああ」
『その人たちも、変わった人だよね。誰かのお父さんかもしれない。…あたし、斬れない』
マーロウは、自分の左の手のひらを見ていた。塞がりかけた、一本の線。
「ロズリンが言ったな。濡れていないと、ほどけないのかもしれない、って」
『砂の獣のとき?』
「あの獣の光は、喉の濡れた肉を萎ませたら、消えた。…噛む兵は、唾で粒を濡らす」
ミラベルが、マーロウの顔を見た。
『坊やの血で、口の中の唾を、粒にしちゃえば』
「濡れてなけりゃ、ほどけない。…かもしれない」
『かもしれない、で、行くの?』
「兵を焼かずに止める手は、ほかに思いつかん」
ミラベルは、マーロウの肩に、頭を押しつけた。
『切りすぎないでよ。一日、二本まで』
「分かってる」
『好き』
「知ってる」
ミラベルが、顔を上げた。何も言わずに、目を閉じた。
「…口は、洗ったのか」
『三回洗った』
今度は、額ではなかった。
離れてから、マーロウは、谷を見たまま言った。
「おまえが泣きそうな顔で会いたいって言ったから、ここまで来た。来てよかった」
空が白むころ、ネルの声がした。
『できたよ』
店の真ん中に、ミラが立っていた。両肩から、革の帯が胴に回されていた。その先に、木の腕が二本。肘に鉄の蝶番。指は、細い鉄の腱でつながっていた。
ミラが、肩を少し上げた。
木の指が、ゆっくり、閉じた。
そのとき、谷に、朝の鐘が鳴った。
坂の上に、白い光が、いくつも灯った。
第四章 了