海壁

第三十二章

行ってきます

挿絵:行ってきます

朝、ミラベルは、マーロウの左の人差し指を、そっと取った。

鉤の先で、指の腹を、ほんの少しだけ突いた。赤い点が、一つ、ふくらんだ。

ミラベルは、それを、唇で受けた。

それから、マーロウの顔を見て、耳まで赤くなった。

『…朝ごはん』

「一滴でいいのか」

『一滴で、いいの。エリスさんが、そう言った』

ミラベルは、自分の胸に手を当てた。

『あったかい。昨日より、あったかい』

マーロウは、指の赤い点を見た。もう、塞がりかけていた。

「…毎朝、これか」

『毎朝、これ。嫌?』

「嫌じゃない」

ミラベルは、マーロウの首に、両腕を回した。

『あたし、坊やから、ご飯もらって生きてるんだよ。すっごく、夫婦っぽくない?』

「知らん」

『夫婦っぽい』


ウィラが、来たのは、昼だった。

一の墓の前に、マーロウが座っていた。ウィラは、その横に、少し離れて座った。

長いこと、二人とも、黙っていた。

『…マーロウ』

「なんだ」

『あたし、父さんと、海壁の街に帰る』

マーロウは、墓の板を見ていた。一、の一字。

『三か月、輪で寝るのが一番だって、分かってる。でも、父さんが、帰りたいって言った。ロズリンさんが、輪の草の汁を瓶に詰めてくれた。日に一口ずつ、三か月ぶん。ティルダさんが、指示書にないけど、って』

「そうだ」

『それに、母さんのお墓。白い石。行ったことないの。父さんと、行きたい』

ウィラは、膝を抱えた。

『提督さんが、船を一隻、出してくれるって。四日で着くって』

「そうか」

『…マーロウも、来てよ』

マーロウは、答えなかった。

ウィラは、分かっていた、という顔で、少し笑った。

『来ないよね。行くとこ、あるんでしょ。一さんの粒、持って』

「ある」

ウィラの笑いが、崩れた。

『あたし、選んじゃった。父さんを』

声が、震えた。

『マーロウについてくの、やめて。父さんを選んじゃった。…三年半、ずっと、マーロウの荷車に勝手に乗ってたのに』

マーロウは、ウィラのほうを向いた。

「選んでいい」

ウィラが、顔を上げた。

「選ぶのは、おまえだ。誰かに決めてもらうな。…エリスが、最後に、そう言った。おれにも、おまえにも言ったんだと思う」

ウィラの目から、涙が落ちた。

『…ずるい。そういうの、急に言うの』

「ミラベルにも、同じこと言われた」

ウィラは、泣きながら、笑った。


船は、翌朝に出ることになった。

ハロルドと、ウィラ。北の海壁の街まで。

ニコは、ケイルと一緒に、都へ戻る。ドンのそばに。

夜、ウィラとニコは、一の墓の前で、並んで座っていた。

『ウィラ、北に帰るんだね』

「うん」

『ぼくは、南。ドンとトンのとこ』

「うん」

ニコは、自分の帯の筒を、指でつついた。

『一日一口。忘れたら、ミアに言いつけるんでしょ』

「言いつける。手紙で」

『ミアに、よろしく。…今度は、ぼくが言う』

ウィラは、ニコの頭を、自分の肩に引き寄せた。

「姉ちゃん二人ぶん、よろしくって、伝えとく」

『…弟だけ置いてく姉ちゃんは、いないんじゃなかったの』

「置いてかないよ。離れるだけ」

ウィラは、ニコの頭を、ぐしゃぐしゃにした。

「離れても、姉ちゃんは姉ちゃん。弟は弟。…ミアが、そう言ってた。兄ちゃんは兄ちゃん、姉ちゃんは姉ちゃんって」

ニコは、ウィラの肩に頭を乗せたまま、小さく頷いた。


朝、光の柱が、畑の端に降りた。

ハロルドが、杖をついて、マーロウの前に立った。

『娘を、しばらく、借りていく』

「返せよ」

『…あんたのほうが、返せと言うのか』

ハロルドは、少しだけ笑った。ウィラと同じ、口の端だけで。

『白い石の前で、エマに言う。娘には、父親が二人いると。…エマは、たぶん、桶で殴ってくる』

「殴られてこい」

『殴られてくる』

ハロルドは、マーロウの手を、骨ばった手で、一度だけ強く握った。

それから、柱のほうへ歩いていった。

ウィラが、マーロウの前に残った。

帳面を、胸に抱えていた。

「…どうした」

『これ、見て』

ウィラは、帳面の最後の頁を開いた。ミアの名前。その下の、三行。

父、ハロルド・ドーセット。母、エマ・ドーセット。

父、マーロウ・ケイン。

『書いたの。見せてなかったけど』

マーロウは、その三行目を、長いこと見ていた。

何か言おうとした。言葉が、出てこなかった。

代わりに、腰の袋から、粒を一つ出した。一の粒。印のない粒。

ウィラの手のひらに、載せた。

「一の粒だ。持っとけ」

ウィラは、粒を握りしめた。

「迎えに行く」

マーロウは、言った。

「全部片づいたら、迎えに行く。街まで」

ウィラは、顔をくしゃくしゃにした。

『…待ってない。あたしが、迎えに来る』

「どっちでもいい」

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。

十二度目だった。

「どっちが先でもいい。会ったら、全部話す」

ウィラは、マーロウの胸に、額をぶつけた。

しばらく、そのまま動かなかった。

それから、顔を上げずに、言った。

『…行ってきます、父さん』

小さな声だった。

それでも、マーロウには、はっきり聞こえた。

ウィラは、走って、光の柱の中へ消えた。

船が、北の空へ上がっていった。

マーロウは、見えなくなるまで、見ていた。

見えなくなってからも、しばらく、見ていた。

ミラベルが、隣に来て、黙って、マーロウの手を握った。赤い紐どうしが、触れた。

「…行ったな」

『うん』

「泣いてない」

『うん。知ってる』

ミラベルは、マーロウの手を、ぎゅっと握った。

『あたしが、横で泣いとくから』

第三十二章 了