第二十五章
穴

提督の船から見下ろす都は、前と同じ三重の丸だった。
違うのは、東の野だった。
倒れた塔の跡の北に、細い溝が何本も引かれていた。溝の中を、ドンのそばから水が流れていた。その両側の乾いた土に、小さな緑が、点々と並んでいた。
麦だった。まだ、指の長さほどの。
ニコが、船の縁から身を乗り出した。
『生えてる!』
ドンは、溝の横で、膝を抱えて座っていた。半分の高さのまま。光る水の体の中で、星が、昼でもゆっくり瞬いていた。
光の柱で降りると、ニコは、真っ先にドンの足元へ走った。
ドンが、水の手を下ろしてきた。ニコは、その指に、額を押しつけた。
『ただいま。…うん。遅くなった』
それから、地面に両手をついた。
長いこと、そのままでいた。
「なんて言ってる」
マーロウが、横に膝をついた。
ニコは、目を閉じたまま、答えた。
『トンが、待ってた。すっごく、待ってた。…その人、もう、目を開けたり閉じたりしてるって。でも、蓋の下からは、出られないって』
「なんで」
『その人がいるのは、蓋の下の、暗い水の中の、硝子の箱の中なんだって。箱ごと、ずっと寝てたって。トンが見張ってたって。トンが生まれる前から、その人は、そこにいたの』
ニコは、少し息を吸った。
『その人を上に出すには、蓋を、上から、少しだけ開けなきゃいけない。前と同じに。開けるには、血が要る。…マーロウの血』
ロズリンが、帳面に書いていた手を止めて、開けたら上の空気と光が下へ入る、暗いところの生き物が死ぬ、と小さく言った。
『夜に開ける、ってトンが言ってる。光が入らないように。空気は、ほんの少しだけ。穴の幅だけ。…すぐ閉める』
ニコは、目を開けた。
『トンが、自分で箱を持って上がるって。管を通って。前に、マーロウの血の瓶を持って下りたみたいに』
「開けるときと、閉めるときで、血が二回要るな」
『うん。瓶、二本』
マーロウは、自分の左の手のひらを見た。
「八滴か。安いもんだ」
夕方、ケイルは、牢へ行った。
パンを、二つ持って。
グレゴールは、格子の奥で、いつもと同じ姿勢で座っていた。ケイルを見て、少しだけ、眉を上げた。
「…久しぶりですね。死んだ方は、忙しいようで」
『北で、畑を守っとった』
「翼もないのに」
『翼のある連中が、代わりに飛んでくれた』
ケイルは、パンを一つ、格子のあいだから差し入れた。もう一つを、自分でかじった。
グレゴールは、パンを受け取って、しばらく見ていた。
「…八日ぶんの、パンですか」
『二つしか持ってこれんかった』
「八日、誰も来ませんでした」
グレゴールは、パンをかじった。
「牢の兵に、今日は来ないのかと、三度訊きました。…自分でも、馬鹿だと思いました」
ケイルは、パンを噛むのをやめた。
格子の奥の男を見た。グリフォンの翼を背中に畳んだ、年上の、弟分の男を。
『…明日も来る』
「明日は、何が余るのです」
『パンだ。毎日、パンが余る』
グレゴールは、何も言わなかった。
言わずに、パンを、最後まで、ゆっくり食べた。
夜、倒れた塔の跡に、全員が集まった。
管は、トンが上がってきた朝に、根元から吹き飛んでいた。瓦礫の中に、穴だけが黒く開いていた。掘った穴は、管よりひと回り太い、と技師長は言った。人が一人、体を縮めれば通れるほどだ。千九百五十メートル。その底に、蓋がある。蓋の下に、硝子の箱がある。
マーロウは、ガラスの瓶を二本、手に持っていた。技師長が、都で新しく二本、用意してくれた。
一本目に、手のひらの血を四滴。蝋で栓をした。
ミラベルが、その手を、横から握った。
『…八滴で済むんだよね』
「済む」
『済まなかったら、あたしが止めるからね』
「止まらんかもしれんぞ」
『止める。あたし、止めるのは得意なの。ずっと、そればっかりやってきたから』
ニコが、瓶を両手で受け取って、穴の縁にしゃがんだ。
地面に、手をついた。
足の下で、音がした。
トン。
深く、低く。それから、もう一度。
トン。
『…いいよ、って』
ニコが、瓶を、穴の中へ、そっと落とした。
瓶は、音もなく、黒い穴に吸い込まれていった。
第二十五章 了