第十九章
帰りたい場所

『帰りたい』
ハロルドが言ったのは、二日後の朝だった。
杖をついて、小屋の前の丸太に座って、畑を見ながら。
『海壁の街に。…家は、もうないだろうが』
ウィラが、豆の椀を持ったまま、止まった。
マーロウは、ハロルドの隣に座っていた。何も言わずに、続きを待った。
『三四五年の夏から、わしの時間は止まっている。起きたら、四年たっていた。市場の顔も、変わっているだろう。牛も、もういない』
ハロルドは、自分の手を見た。痩せた手だった。
『それでも、帰りたい。エマの墓がある。…墓と言っても、石が一つ置いてあるだけだが』
「…あたしも、行ったことない」
ウィラが、小さく言った。
「父さんがいなくなってから、場所、分からなくなった」
『東門の外の、丘の上だ』
ハロルドは、ウィラのほうを向いた。
『白い石だ。エマが好きだった、白い花の咲く木の根元』
ウィラは、椀を膝に置いた。
それから、マーロウを見た。
マーロウは、畑を見たまま、言った。
「今は、まだ無理だ。杖なしでは歩けん体で、二十日以上の道は歩けん」
『分かっている』
「東の輪で、もう少し寝ろ。三か月。戻ったやつは、みんな三か月かかった。オットも、サムも」
ハロルドは、しばらく黙っていた。
『…あんたは、娘の父親らしいことを言う』
「言ってない」
『言っている』
ウィラが、椀で顔を隠した。隠しても、耳が赤かった。
その日の昼、南の空から、グリフォンが一騎、降りてきた。
乗っていたのは、共和国の兵だった。提督の船にいた顔だった。兵は、グリフォンの背から、筒を一本外して、マーロウに差し出した。
「提督より」
筒の中に、紙が三枚入っていた。
ロズリンが、声に出して読んだ。
『一つ。帝国より議会へ書状。畑にいる帝国出身の者は、すべて帝国の財産である。医官ヒューゴ・ランベールと、財産を、ただちに返せ』
火のまわりが、静かになった。
『二つ。帝国の輸送船が、国境の北に集まっている。数、十二。畑まで、五日で届く見込み』
ドラグの顔が、こわばった。
『三つ。議会は、畑を返さないと決めた。私は、船を出す。議会の許しに二日、飛ぶのに二日。四日で着く。それまで持ちこたえろ』
ロズリンは、三枚目をめくった。
裏に、もう一行、別の字で書いてあった。大きくて、少し曲がった、子どもの字だった。
ロズリンは、それを読む前に、マーロウに紙を渡した。
マーロウは、読んだ。
トンが、いそいで会いたいって。蓋の下の、同じにおいの人が、起きかけてるって。ニコ。
マーロウは、その紙を、長いこと見ていた。
起きかけている。
三百年より前に、蓋を閉めた者が。
ミラベルが、横から紙を覗きこんだ。
『…起きかけてるって、何』
「分からん」
『蓋の下で、三百年、寝てたってこと?』
「分からん」
『坊や、さっきから、分からんしか言ってない』
マーロウは、紙を畳んだ。
「分からないことが、多すぎる」
一が、火の向こうから言った。
『帝国の船が五日。提督が四日。蓋の下が、いそいで』
一は、指を三本立てた。
『どれから片づける』
マーロウは、畑を見た。
地平線まで寝ている、二万人。東の輪の、四十人。目が動きはじめた百八十六人。口をきく二人。
その中に、ハロルド・ドーセットがいた。
「…船だ」
マーロウは、言った。
「帝国の船から片づける。ここを置いて、都へは行けん」
『だよね』
ミラベルが、手首の赤い紐を、指で一度だけ撫でた。
『じゃあ、あたし、五日で、剣をもっと上手に振れるようになっとく』
「今でも十分だろ」
『十二隻でしょ。十分じゃ足りない』
夜、マーロウは、東の列で寝た。
三晩休んだぶん、草の光は少し落ちていた。ミラベルが、管をつないだ。
つないだあと、ミラベルは、剣を膝に置かずに、マーロウの隣に横になった。
『五日後、来るんだね』
「ああ」
『帝国の船、坊やの街に落ちてきたのと、同じやつでしょ』
「同じ形だ」
『あれが落ちてこなかったら、坊や、あたしに会ってなかったんだよね』
マーロウは、空を見た。
一年前の昼。壁の向こうに落ちた船。剥いだ灰色のコート。そこから、全部が始まった。
「…そうだな」
『じゃあ、あの船には、ちょっとだけ感謝してる』
ミラベルは、マーロウの手を、自分の手で包んだ。赤い紐どうしが、触れた。
『でも、十二隻は、多い。一隻でよかったのに』
マーロウは、少しだけ笑った。
隣の列で、ハロルドの寝息がしていた。その向こうで、ウィラが、父親の手を握って、眠っていた。
その夜も、ハロルドの目は、閉じた瞼の下で、ゆっくり動いていた。
第十九章 了