海壁

第三十一章

一、でいい

挿絵:一、でいい

提督の船が畑に着いたのは、二日後の昼だった。

光の柱が地面に着く前に、マーロウは、柱の縁から飛び降りていた。

畑の真ん中の、一の輪。

いちばん明るい、三十メートルの輪の真ん中に、白い髪の男が、横たえられていた。胸の上で、両手を組まされて。ティルダが、そうしたのだった。変わった者が、指示書にないことを、自分で。

その横に、ミラが、座っていた。

マーロウは、輪の縁で、足を止めた。

一歩も、前へ出られなかった。


ミラが、顔を上げた。

金属の目で、マーロウを見た。

それから、立ち上がって、マーロウの前まで来た。腕のない体で、まっすぐ。

『見てた』

ミラは、言った。

『最後まで、見てた。一に、言われたから』

「…ああ」

『伝える。一に、言われた』

ミラは、息を吸った。息をしない体なのに、吸うようにして。

『待つのは、慣れとった。待たせるのは、慣れんかったな。…あいつに、そう言え』

マーロウは、動かなかった。

『それと、あいつの顔、見とってやれ。おれと、同じ顔だ』

ミラは、マーロウの顔を、見上げた。

『だから、見てる。これから、ずっと』

マーロウは、膝をついた。

輪の縁で。光る草の上で。

一の顔が、見えた。同じ顔。二十年ぶん年を取った顔。九年坑の底にいて、一年畑で寝て、最後の夜に、鐘鳴きの群れを畑から引き離して走った顔。

すぐ戻る、と言った。

すぐでなくていい、と一は言った。待つのは慣れとる、と。

待たせたのは、自分だった。

「…遅れた」

声が、出なかった。出したつもりの声が、喉の奥で割れた。

「すまん。…遅れた」

マーロウは、草の上に、両手をついた。

肩が、震えた。

ミラベルが、後ろから、何も言わずに、マーロウの背中を抱いた。両腕で。金属のほうの腕も、そうでないほうの腕も。

マーロウは、泣いた。

母さんの十四日が終わった夜以来だった。声を殺そうとして、殺せなかった。

ミラベルは、ずっと、背中を抱いていた。

ミラが、その横で、マーロウの顔を、見ていた。一に、言われたとおりに。


夕方、一の体を、輪の真ん中に埋めた。

一が、一年寝ていた場所だった。管の跡が、まだ土に残っていた。

ドラグが、穴を掘った。ケイルが、土をかけた。二人とも、何も言わなかった。

ウィラが、一の手を、最後に握った。

「握手」

ウィラは、言った。泣いていたが、声は、崩れなかった。

「ただいまの握手、したでしょ。これは、…これは、いってらっしゃいの、握手」

土が、一の手を覆った。

マーロウは、板を一枚、墓の上に立てた。

何を書けばいいか、分からなかった。

ロズリンが、筆を差し出した。

『何て、書きますか』

去年、畑の丘で、同じことを訊いた。何て書けばいい、と。

一は、答えた。

一、でいい。おまえがそう呼んだ。呼ばれたら、名前だ。

マーロウは、筆を取った。

板に、一字だけ書いた。

一。

その下に、ロズリンが、小さく書き足した。

〇〇一。百六人の、いちばん上。兄貴。帝国暦三四九年、春。


墓のまわりに、人が集まってきた。

一の輪と東の輪で寝ていた者のうち、目の開いた者たちが、一人ずつ、起き上がって、歩いてきた。杖をつく者。人の肩を借りる者。

ガリー・ノーツが、ヨルンの肩を借りて、墓の前に立った。

四十一年、畑で寝ていた老人は、板の一字を、長いこと見ていた。

唇が、動いた。

『…ありがとう』

かすれた、初めての、はっきりした言葉だった。ヴェスタと、帰りたい、以外で。

ガリーの後ろで、名前を取り戻した兵たちが、ひとり、またひとり、膝をついた。トビー・マーシュが、いちばん前で、頭を下げていた。

ティルダが、帳面を抱えて、少し離れたところに立っていた。

いつもの、平らな顔だった。

その頬に、水が、一筋あった。

ティルダは、気づいていないようだった。気づかないまま、帳面を開いて、何かを書いた。

ロズリンが、横から、覗いた。

墓のまわりの者、三百四十一名。

その下に、もう一行。

泣いた者、数えきれず。監督官を含む。


夜、マーロウは、荒れ地へ行った。

一が倒れていた岩のあいだに、粒が、たくさん落ちていた。一の手が、最後の夜に作った粒。印のない粒。

マーロウは、一つずつ、拾った。

灯りを持って、ミラベルが手伝った。ミラが、見ていた。

全部拾うのに、夜半までかかった。

マーロウは、数えた。

殻からこぼれた粒は、昼のうちに翼の者たちが袋に集めてあった。岩のあいだに残っていたのは、一が手を当てた場所にだけ落ちていた、一の手の粒だった。

三百十二。

一から預かった袋の中の、二百七十五と、合わせた。

五百八十七。

一が、九年と一年と、最後の一晩で残した、印のない粒だった。

マーロウは、袋の口を、固く結んだ。

「…持っていく」

『どこへ?』

ミラベルが、訊いた。

マーロウは、北東の空を見た。孤独の大地の方角だった。

「一が作られた場所に」

第三十一章 了