
第一章
鐘鳴きの夜

鐘の音が、畑の向こうから聞こえてきた。
水の中で鐘を鳴らしたような音だった。一つではなかった。
ウィラが、手綱を引いた。馬が二頭とも、耳を後ろへ倒していた。
「…あれ、あの音」
『鐘鳴きだ』
荷台で、ヨルンとユランが同時に言った。
都を出て六日目の夕方だった。マーロウの数えでは、十一日目。ニコは、都に残った。ドンのそばを離れないと言って、麦の溝の横で手を振った。
丘の上から、畑が見えた。
地平線まで、人が寝ている。胸から伸びた管が、光る草の根元に刺さっている。
その草の光が、揺れていた。
消えては点き、点いては消えた。二万人の寝息が乱れているのが、丘の上からでも分かった。
畑の東の端に、影が三つあった。
荷車の倍の高さ。荷車三台ぶんの長さ。透き通った板を何百枚も重ねた殻の奥で、白い光が脈打っている。頭がなく、頭の位置に大きな穴が一つ。
穴が開くたびに、鐘の音がした。開くたびに、まわりの草の光が、穴のほうへ吸い寄せられていった。
「三頭いる」とマーロウは言った。
去年、一頭でミラベルは死にかけた。
『…あー』
ミラベルが、御者台の横で、左手を開いて閉じた。
指先から、黒い液が、ひとしずく、宙に浮いた。まだ遠いのに、もう吸われはじめていた。
『去年のやつだ。お腹すいてるんだね、あの子たち』
「行くな」
『行くよ』
「半分しか刃が伸びないだろ」
ミラベルは、振り向いて、にっと笑った。
背中から、名前のない剣を抜いた。
『これ、粒、要らないの。ただ硬いだけ。吸われるものが、なんにもない』
マーロウは、口を閉じた。
「…キスして、は」
言ってから、自分で驚いた。
ミラベルが、目を丸くした。
それから、御者台に片足をかけて、顔を寄せた。短く。
『坊やから言ってくれた。初めて』
「さっさと行け」
『好き。大好き。行ってくる』
ミラベルは、丘を駆け下りていった。
一頭目は、ミラベルに気づくのが遅かった。
穴が、ミラベルのほうへ向いた。鐘が鳴った。ミラベルの肩から、黒い液が糸のように引かれた。
引かれながら、ミラベルは跳んだ。
剣が、殻の穴の縁から、尻まで、まっすぐ抜けた。
白い光が、一瞬、草原を昼にして、消えた。殻が二つに割れて、中から粒が、ざらざらとこぼれた。
二頭目が、横から来た。地面に張りついた何十本もの脚で、草をなぎ倒しながら。
ミラベルの刃が、左腕から伸びた。半分の長さだった。
刃では受けず、剣で受けた。
殻の脚が三本、まとめて飛んだ。
ミラベルは、脚を失ってよろけた殻の背に駆け上がって、剣を真下へ突き立てた。
脈打つ白い光に、剣が届いた。
二頭目が、崩れた。
丘の上で、ヨルンが声を上げた。
「…去年は、あれ一頭に、半分持っていかれたのに」
『指が戻ったからだ』とユランが言った。『それと、剣だ』
マーロウは、何も言わなかった。
言わなかったが、口の端が、勝手に上がっていた。
三頭目は、ミラベルに向かわなかった。
向きを変えて、畑の真ん中へ走っていった。
いちばん強く光る輪のほうへ。三十メートルの輪の真ん中に、白い髪の男が、胸に管をつないで横たわっていた。
一だった。
「ミラベル!」
ミラベルが振り向いた。遠かった。二頭目の殻の上から、畑の真ん中までは、百メートルはあった。
三頭目の穴が、一の胸の上で、開きかけていた。
マーロウは、荷車から飛び降りていた。
走った。寝ている人の列を跳び越えて、管を踏まないように。
一の前に立った。
腰の袋をつかんだ。一から預かった、残りの粒。二百七十五。
「悪いな、一」
袋ごと、畑の外の暗がりへ、力いっぱい投げた。
穴が、止まった。
殻が、ぐるりと向きを変えた。袋が落ちたほうへ。粒の匂いの濃いほうへ。
その背中の上に、灰色の髪が降ってきた。
剣が、殻の真ん中を、縦に割った。
鐘の音が、途中で切れた。
畑の光が、ゆっくり、元の明るさに戻っていった。二万人の寝息が、また揃った。
ミラベルは、割れた殻の上から飛び降りて、マーロウの胸にぶつかった。
『坊や! また前走った!』
「走ってない。立ってただけだ」
『同じ!』
ミラベルの肩から、まだ黒い液がにじんでいた。マーロウは、その肩を手で押さえた。
足元で、しわがれた声がした。
『…騒がしいな』
一が、管をつないだまま、目を開けていた。
マーロウと同じ顔で、少しだけ笑った。
『来るなと、言ったろう』
第一章 了