海壁
第四巻の終わり 人物相関図
第四巻の終わり 人物相関図

第一章

鐘鳴きの夜

挿絵:鐘鳴きの夜

鐘の音が、畑の向こうから聞こえてきた。

水の中で鐘を鳴らしたような音だった。一つではなかった。

ウィラが、手綱を引いた。馬が二頭とも、耳を後ろへ倒していた。

「…あれ、あの音」

『鐘鳴きだ』

荷台で、ヨルンとユランが同時に言った。

都を出て六日目の夕方だった。マーロウの数えでは、十一日目。ニコは、都に残った。ドンのそばを離れないと言って、麦の溝の横で手を振った。

丘の上から、畑が見えた。

地平線まで、人が寝ている。胸から伸びた管が、光る草の根元に刺さっている。

その草の光が、揺れていた。

消えては点き、点いては消えた。二万人の寝息が乱れているのが、丘の上からでも分かった。

畑の東の端に、影が三つあった。

荷車の倍の高さ。荷車三台ぶんの長さ。透き通った板を何百枚も重ねた殻の奥で、白い光が脈打っている。頭がなく、頭の位置に大きな穴が一つ。

穴が開くたびに、鐘の音がした。開くたびに、まわりの草の光が、穴のほうへ吸い寄せられていった。

「三頭いる」とマーロウは言った。

去年、一頭でミラベルは死にかけた。


『…あー』

ミラベルが、御者台の横で、左手を開いて閉じた。

指先から、黒い液が、ひとしずく、宙に浮いた。まだ遠いのに、もう吸われはじめていた。

『去年のやつだ。お腹すいてるんだね、あの子たち』

「行くな」

『行くよ』

「半分しか刃が伸びないだろ」

ミラベルは、振り向いて、にっと笑った。

背中から、名前のない剣を抜いた。

『これ、粒、要らないの。ただ硬いだけ。吸われるものが、なんにもない』

マーロウは、口を閉じた。

「…キスして、は」

言ってから、自分で驚いた。

ミラベルが、目を丸くした。

それから、御者台に片足をかけて、顔を寄せた。短く。

『坊やから言ってくれた。初めて』

「さっさと行け」

『好き。大好き。行ってくる』

ミラベルは、丘を駆け下りていった。


一頭目は、ミラベルに気づくのが遅かった。

穴が、ミラベルのほうへ向いた。鐘が鳴った。ミラベルの肩から、黒い液が糸のように引かれた。

引かれながら、ミラベルは跳んだ。

剣が、殻の穴の縁から、尻まで、まっすぐ抜けた。

白い光が、一瞬、草原を昼にして、消えた。殻が二つに割れて、中から粒が、ざらざらとこぼれた。

二頭目が、横から来た。地面に張りついた何十本もの脚で、草をなぎ倒しながら。

ミラベルの刃が、左腕から伸びた。半分の長さだった。

刃では受けず、剣で受けた。

殻の脚が三本、まとめて飛んだ。

ミラベルは、脚を失ってよろけた殻の背に駆け上がって、剣を真下へ突き立てた。

脈打つ白い光に、剣が届いた。

二頭目が、崩れた。

丘の上で、ヨルンが声を上げた。

「…去年は、あれ一頭に、半分持っていかれたのに」

『指が戻ったからだ』とユランが言った。『それと、剣だ』

マーロウは、何も言わなかった。

言わなかったが、口の端が、勝手に上がっていた。


三頭目は、ミラベルに向かわなかった。

向きを変えて、畑の真ん中へ走っていった。

いちばん強く光る輪のほうへ。三十メートルの輪の真ん中に、白い髪の男が、胸に管をつないで横たわっていた。

一だった。

「ミラベル!」

ミラベルが振り向いた。遠かった。二頭目の殻の上から、畑の真ん中までは、百メートルはあった。

三頭目の穴が、一の胸の上で、開きかけていた。

マーロウは、荷車から飛び降りていた。

走った。寝ている人の列を跳び越えて、管を踏まないように。

一の前に立った。

腰の袋をつかんだ。一から預かった、残りの粒。二百七十五。

「悪いな、一」

袋ごと、畑の外の暗がりへ、力いっぱい投げた。

穴が、止まった。

殻が、ぐるりと向きを変えた。袋が落ちたほうへ。粒の匂いの濃いほうへ。

その背中の上に、灰色の髪が降ってきた。

剣が、殻の真ん中を、縦に割った。

鐘の音が、途中で切れた。


畑の光が、ゆっくり、元の明るさに戻っていった。二万人の寝息が、また揃った。

ミラベルは、割れた殻の上から飛び降りて、マーロウの胸にぶつかった。

『坊や! また前走った!』

「走ってない。立ってただけだ」

『同じ!』

ミラベルの肩から、まだ黒い液がにじんでいた。マーロウは、その肩を手で押さえた。

足元で、しわがれた声がした。

『…騒がしいな』

一が、管をつないだまま、目を開けていた。

マーロウと同じ顔で、少しだけ笑った。

『来るなと、言ったろう』

第一章 了