海壁

第八章

一の手

挿絵:一の手

兵たちが、東の列へ走りだした。

四人一組で、杭のあいだを縫うように。寝ている者の胸から管を抜いて、担いで、変換器の荷車へ運ぶ。そういう動きを、何百回もやってきた足取りだった。

「ドラグ!」

マーロウが叫ぶより早く、ドラグが兵の前に立っていた。

素手だった。

先頭の四人が、槍を構えた。ドラグは、槍の柄を二本まとめてつかんで、へし折った。

『東の列には、入らせん』

兵たちが、たじろいだ。

その間に、鐘の音が、畑じゅうに響いた。


五頭の鐘鳴きが、畑の縁に着いた。

四頭が、明るい東の列へ、まっすぐ向かってきた。穴が開くたびに、草の光が吸われていった。寝ている者たちの寝息が、乱れた。

ミラベルが、跳んだ。

一頭目の殻を、剣で縦に割った。白い光が、昼を作って、消えた。

二頭目の脚を、まとめて払った。

三頭目の穴の縁に、剣を突き込んだ。

四頭目が、横から来た。ヨルンとユランが、その前に飛び出した。

「右から脚!」

『後ろ、尾が回る!』

二人の声のとおりに、ミラベルは身をひねった。四頭目の脚が、ミラベルのいた場所を叩いた。ミラベルの剣が、その脚の付け根から、背中の光まで、斜めに抜けた。

四頭が、倒れた。

残ったのは、五つ目だった。


大きいのは、ほかの四頭のように走らなかった。

ゆっくり、東の列の手前まで来て、止まった。

殻の穴が、開いた。

鐘が、鳴った。腹の底が揺れるような、低い音だった。

ミラベルの体から、黒い液が、いっせいに浮き上がった。

肩から。脇腹から。左腕の付け根から。糸ではなく、霧のように。

ミラベルの膝が、折れた。

『…っ』

刃が、左腕から、まったく伸びなかった。

剣だけが、手の中にあった。握る指から、黒いものが、細く引かれていた。

「ミラベル!」

マーロウは、走った。

『来ないで!』

ミラベルが、叫んだ。

『坊や、来たら、坊やの袋が吸われる! 粒の匂い、いちばん濃いの、坊やなの!』

マーロウの足が、止まった。

腰の袋。一の粒。二百七十五。

大きいのの穴が、ゆっくり、ミラベルのほうへ下りてきた。


そのとき、白い髪の男が、マーロウの横を走り抜けた。

一だった。

痩せた足で、寝ている人の列を跳び越えて、まっすぐ大きいのへ走っていった。

「おい!」

『粒は、持っとらん!』

一は、走りながら叫んだ。

『おれは、一つも持っとらん。全部、おまえにやった!』

一は、大きいのの脚の下へ滑り込んだ。

何十本もの脚の、付け根。透き通った殻の板と板のあいだに、ぬめった肉が見えた。

一は、自分の手のひらを、歯で噛み切った。

血が出た。

その手を、肉の継ぎ目に、押し当てた。

音がした。濡れた布を、一気に絞ったような音。

継ぎ目の肉が、萎んだ。桶一杯ぶんの水が、そこから消えた。

一の手のひらの下に、粒が一つ、こぼれた。

大きいのが、鐘の音を乱した。脚が一本、崩れた。

一は、手を離して、隣の継ぎ目に押し当てた。

また、音がした。

また、押し当てた。

また。

また。

「…何回、やる気だ」

マーロウは、呆然と見ていた。

一の手は、止まらなかった。速かった。迷いがなかった。九年、毎朝、同じことをやってきた手の速さだった。坑の底で、毎朝百回、水に手を入れてきた手だった。

二十回目で、大きいのの脚が、半分崩れた。

四十回目で、殻が傾いた。

穴が、ミラベルから逸れた。

ミラベルの体から浮いていた黒い霧が、止まった。

左腕から、刃が、伸びた。

ミラベルは、立ち上がった。

剣を握り直して、傾いた殻の上に、駆け上がった。

『おじさん、どいて!』

一が、脚の下から転がり出た。

剣が、殻の真ん中の、いちばん強い光に、真上から沈んだ。

鐘の音が、途切れた。

白い光が、畑の端から端までを、一瞬、昼にした。


光が消えたあと、畑は、静かになった。

大きいのの殻が、崩れて、中から粒が、雨のようにこぼれていた。

一は、その粒の中に、仰向けに倒れていた。

手のひらは、血まみれで、もう塞がりはじめていた。

マーロウは、一の横に膝をついた。

「…あんた、何回やった」

『数えとらん』

一は、空を見たまま、笑った。

『百には、届かんかった。九年で、腕がなまったな』

「なまってて、あれか」

『兄貴だからな』

一は、目を閉じた。

『先に、苦労するのが、兄貴なんだろう』

畑の端で、兵たちが、槍を下ろしていた。

ティルダ・ノームが、帳面を抱えたまま、崩れた殻を見ていた。

その顔は、やはり、平らだった。

ただ、帳面を開く手が、いつもより、少しだけ遅かった。

第八章 了