海壁

第三章

名前一つぶん

挿絵:名前一つぶん

朝の畑は、夜より静かだった。

光る草は、日の下では光って見えない。見えるのは、地平線まで並ぶ寝息と、胸から伸びる管と、杭の札だけだった。

ロズリンは、帳面を抱えて、列のあいだを歩いていた。

去年、書ける分だけ写した番号の続きを、今年は全部写すつもりだった。二万人ぶん。一日で終わる数ではない。終わらなくてもいい、とロズリンは思っていた。写したぶんだけ、ここにいたことになる。

ドラグが、少し後ろを歩いていた。

何も言わない。ロズリンが杭の前で止まると、ドラグも止まった。ロズリンが書き終えて歩きだすと、ドラグも歩いた。

『…隊長』

「なんだ」

『見張りの順番では、今は、お休みの時間です』

「帳面の横に座っとると言った」

ドラグは、真顔だった。

「座る場所がないから、立っとる」

ロズリンは、帳面で顔の半分を隠した。

隠したまま、次の杭へ歩いた。


輪の中で、一が待っていた。

三十メートルの輪。一の血でいちばん強く育つ草の輪。その中に寝ている人たちだけ、ほかより顔色がよかった。

「こいつらを見てくれ」と一が言った。

一は、一人の男の横に膝をついた。灯りを、男の顔の上で、ゆっくり右から左へ動かした。

男の目が、閉じたまま、瞼の下で動いた。灯りを追うように。

「二十日ほど前からだ。輪の中のやつらだけ、こうなった。ほかの列では、起きとらん」

ロズリンは、息を止めて、それを見ていた。

『…いつから、気づいていたのですか』

「最初は、気のせいだと思った。十日前に、気のせいではないと思った。そのあとすぐ、鐘のやつが来た」

一は、灯りを下ろした。

「だから、寝とったんだ。管を外せば、畑は暗くなる。暗くなったら、この目も、止まる気がした」


輪の端の杭に、ロズリンの字があった。

去年、番号の横に、書き足した名前。

ガリー・ノーツ。

黒の書の九人目。四十一年前、壁の向こうから戻って、ヴェスタに肋を縫われた十九の兵。変わったあと、帝国から共和国へ売られて、四十一年、この畑で寝ていた男。

今は、六十になる。白い髭が、胸の管にかかっていた。

ロズリンは、杭の前にしゃがんだ。

『ガリーさん』

名前を呼んだ。去年も呼んだ。去年は、目を開けて、いらっしゃいませ、何かご用でしょうか、と言った。

老人の瞼が、動いた。

開いた。

濁った目が、空を見て、それから、ゆっくり下りてきて、ロズリンの帳面で止まった。

唇が、動いた。

声は、ほとんど出なかった。

それでも、ロズリンには聞こえた。

「…ヴェスタ」

ロズリンの手から、筆が落ちた。

一が、老人の横で、動かなくなった。

ドラグが、ロズリンの後ろで、息を呑んだ。

いらっしゃいませ、ではなかった。何かご用でしょうか、でもなかった。

四十一年前に、自分の肋を縫った女の名前だった。


「…名前一つぶんだ」

一が、かすれた声で言った。

「四十一年ぶんのうちの、名前一つぶんだけ、戻った」

ロズリンは、落とした筆を拾えなかった。

代わりに、ドラグが拾った。拾って、ロズリンの手に握らせた。握らせたまま、手を放さなかった。

ロズリンは、その手の中で筆を持ち直した。

杭の前で、帳面を開いた。

帝国暦三四九年、春。ガリー・ノーツ。ヴェスタ、と言った。

字が、にじんだ。


騒ぎを聞いて、マーロウとミラベルが走ってきた。ウィラが続いた。

ロズリンの話を聞いて、マーロウは、しばらく何も言わなかった。

それから、一を見た。

一は、輪の真ん中の、自分が寝ていた場所を見ていた。

「なんで戻る」とマーロウは訊いた。

『知らん』

一は、正直に言った。

『おれの血で育った草の汁が、輪の中のやつらに流れとる。それが何かしとるんだろう。何をしとるかは、分からん』

一は、マーロウのほうを向いた。

『迎えに来てくれたのは、嬉しかった。本当だ。…だが、もう少し、待ってくれ』

「どれくらいだ」

『分からん。こいつらの目が、全部開くまでか。開かんと分かるまでか』

一は、少し笑った。

『今度は、おれが待たせる側だな』

マーロウは、一の顔を見た。自分と同じ顔。二十年ぶん年を取って、九年坑の底にいて、一年畑で寝て、まだ誰かを待たせたことのなかった顔。

「…分かった」

ミラベルが、マーロウの横で、剣の柄を叩いた。

『じゃあ、鐘のやつは、あたしが見張る。何頭来ても、今のあたしなら平気』

ウィラが、老人の横にしゃがんでいた。

灯りを、老人の顔の前で、そっと動かした。老人の目が、それを追った。

それから、老人の唇が、もう一度、動いた。

今度は、少しだけ、声になった。

「…帰りたい」

ウィラは、灯りを持ったまま、振り返った。

マーロウを見た。

何も言わなかった。言わなくても、分かった。

二万人が、寝ていた。地平線まで。

第三章 了