海壁

第二十一章

六百

挿絵:六百

帝国の船は、五日を待たなかった。

四日目の夜明け、北の空が、白い光で埋まった。

一隻、二隻、三隻。数えるのをやめた。ヨルンが丘の上で数えた。十二。

十二隻の輸送船が、畑の北の端に、横一列に降りてきた。腹の光が、朝の草を白く染めた。

提督の船は、まだ見えなかった。


戸が開いた。板が渡された。

兵が降りてきた。

灰色の軍服ではなかった。薄い灰色の、施療所の寝間着のような服だった。その上に、革の胸当て。手に、槍。

一隻から、五十人。十二隻から、六百人。

六百人が、音を立てずに、畑の北の縁に並んだ。

誰も、喋らなかった。誰も、よそ見をしなかった。全員が、同じ速さで息をしていた。

襟に、小さな札が縫いつけてあった。数字が書いてあった。

最後に、真ん中の船から、男が一人降りてきた。

灰色の軍服。胸に、帝国の星の印。白い髭。背が高く、肩が広い。人間だった。

ドラグの顔が、変わった。

「…グレイ将軍」

男が、ドラグを見た。

『モーテンセンか』

低い、よく通る声だった。

『東で死んだと聞いた。壁の隊長を任じたのは、私だったな』

「はい」

『その隊長が、共和国の畑で、帝国の医官を縛っている』

グレイは、小屋の裏の柱のほうを見た。縄で繋がれたヒューゴが、背筋を伸ばして、会釈した。

『帝国の財産を、返してもらう。医官と、帝国から来た者、二千名。それから、口をきく者を』


「返さない」

マーロウが、前に出た。

グレイの目が、マーロウに移った。顔を見て、肘の内側を見た。ヒューゴと同じ見方だった。

『一〇六番か。台帳で知っている』

「知ってるなら、話が早い。ここの連中は、財産じゃない」

『帝国の施療所が、瓶を飲ませ、運び、共和国へ売った。代金の粒は、帝国の灯りになった。財産でなければ、何だ』

「人だ」

グレイは、少しも表情を変えなかった。

『人なら、なおさら、帝国の民だ。民は、帝国に帰る』

グレイは、片手を上げた。

六百人が、同時に、槍を構えた。

音が、一つしかしなかった。


「来るぞ」

ドラグが、低く言った。

ミラベルが、剣を抜いた。ヨルンとユランが、東の輪の手前に立った。一が、輪の真ん中で、寝ている者たちの前にしゃがんだ。

ウィラが、父親の杭の前に立った。

六百人が、歩きだした。

走らなかった。叫ばなかった。同じ速さで、ただ、まっすぐ。

ミラベルが、跳んだ。

先頭の十人の槍を、剣の一振りで、まとめて落とした。柄が、宙を舞った。

十人は、止まらなかった。

槍のなくなった手で、そのまま、歩いてきた。

ミラベルが、一人の足を払った。倒れた。倒れたまま、起き上がって、また歩いてきた。

『…止まんない』

ミラベルの声が、震えた。

『この人たち、止まんないよ、坊や』

二十人目の槍を落として、三十人目の胸当てを剣の腹で打った。打たれた兵は、よろけて、よろけたまま、前へ出た。痛がる顔もしなかった。

ミラベルの剣が、一瞬、止まった。

振り下ろせば、止まる。刃を立てれば、終わる。

振り下ろさなかった。

『…できない』

ミラベルは、兵の肩を蹴って、後ろへ跳んだ。

『この人たち、誰かのお父さんだよ。ハロルドさんと、同じだよ』


ドラグが、兵の列に組みついた。二人、三人と、まとめて押し倒した。押し倒された兵は、倒れたまま、ドラグの足にしがみついた。四人目、五人目が、その上から来た。

ヨルンとユランが、背中合わせで、槍の柄を払い続けた。払っても、払っても、次が来た。

一の前にも、兵が来た。一は、手のひらを噛み切ろうとして、やめた。

やめて、兵の胸を、両手で押し返した。

『…すまん。おまえに、あれはできん』

兵は、押し返された分だけ下がって、また来た。

六百人は、一歩ずつ、東の輪に近づいていた。

マーロウは、ウィラの前にいた。ハロルドの杭の前。鉤を握っていた。握ったまま、振れなかった。

一人の兵が、マーロウの前に来た。

若い男だった。十八か、十九。痩せていた。目が、何も見ていなかった。

襟の札に、数字があった。

兵の手が、マーロウを押しのけて、ハロルドの胸の管に伸びた。

「…っ」

マーロウは、その手首をつかんだ。

兵は、振りほどこうとしなかった。ただ、同じ力で、管のほうへ手を伸ばし続けた。


そのとき、荷車の上で、声がした。

ロズリンだった。

荷車の荷台の上に立って、施療所の台帳を、両手で開いていた。眼鏡の奥の目が、戦場の真ん中の、一人の兵の襟を見ていた。

マーロウの手首を振りほどこうとしている、若い兵の襟の、数字を。

ロズリンの指が、台帳の頁を走った。速かった。三年、名簿を写してきた指だった。

止まった。

ロズリンは、息を吸って、畑じゅうに届く声で、読んだ。

『帝国暦三四七年、冬。東の谷。トビー・マーシュ』

マーロウの手の中で、若い兵の手首が、止まった。

一拍。

兵の目が、ほんのわずかに、動いた。

第二十一章 了